
韓国初のノーベル文学賞に輝いた女流作家の韓江氏(53)。国内ではその快挙をたたえ、著書が飛ぶように売れているが、一方で評価された小説の素材には韓国政治で保革対立の火種となってきた事件が多く、韓氏自身が被害者側の偏った視点で描写しているとの指摘があり、保守層を中心に手放しでは喜べない「不都合な真実」も垣間見える。(ソウル上田勇実)
ノーベル委員会は韓氏受賞の理由と関連し「歴史的トラウマに立ち向かい、人間の生涯のか弱さをさらけだした強烈な詩的散文」と説明した。評価された主な小説は長編小説『菜食主義者』(2007年)、『少年が来る』(14年)、『別れを告げない』(21年)などとみられている。
『菜食主義者』は、人間の存在と自我に対する深い哲学的問いを投げ掛けた小説で、主人公が社会的抑圧と暴力から抜け出そうとする強烈な抵抗の表現として菜食主義を宣言する物語。韓氏はあるメディアのインタビューで、この小説を書くことになった動機は、1980年に南西部・光州で起きた民主化運動で受けた衝撃にあったと述懐している。
この民主化運動では、当時の軍事独裁政権に抵抗する市民の蜂起と、これを武力弾圧した政権が衝突し、双方に多くの死傷者が発生した。光州で生まれた韓氏は後にソウルに引っ越した後、事件で死傷した市民の凄惨(せいさん)な姿を収めた写真集を見て「人生が変わった」と言い、「人間への根源的な問いを菜食主義者(を書くこと)で探究し始めた」という。
また『別れを告げない』は、48年に南部の済州島で起きたいわゆる4・3事件を題材にしたもので、生きる力を取り戻そうとする女性同士が、事件に埋もれた人々の激烈な記憶と痛みを受け止め、未来につなぐ再生の物語。特に韓氏が自分の作品を初めて読む人に薦めるのが同書だという。
事件では李承晩政権発足への反対運動を政権側が弾圧した過程で数万人の民間人が犠牲になったが、反対派に北朝鮮が関与した可能性が指摘されてきた。
韓氏の作品に共通するのは被害者の視点であり、しかも今も保革対立の火種になり続けている光州事件や4・3事件を素材にしているため、韓国では評価が分かれていた。
朴槿恵政権は2016年、光州事件で命を落とした少年の物語『少年が来る』を書いたことなどを理由に韓氏をいわゆる「文化界ブラックリスト」に入れていたことが後に判明。京畿道は『菜食主義者』が同性愛を煽(あお)るものとする一部保守系団体の主張を受け入れ、22年から1年間、同書を有害図書に指定して小・中・高校の図書館で廃棄処分させた。
韓氏は17年、米紙ニューヨーク・タイムズへの寄稿文で、朝鮮戦争について「南と北の韓民族がみな戦争の惨禍に見舞われた」と指摘し、侵略した北と侵略された南を同列扱いするかのごとく書いた。また、当時就任したてのトランプ米大統領が北朝鮮の核を除去するための武力行使を示唆したことについて「韓国人は平和以外のいかなる方法も無意味であることを理解している」として、北朝鮮擁護とも受け止められる見解を示した。
大半の韓国国民にとって、韓氏の作風に左翼史観が貫かれていても、「小説は歴史書ではなくフィクションであり、作家の文学性は高く評価されるべき」(保守派の識者)という点で異論はなさそうだ。
問題なのはノーベル賞というお墨付きを得たことで、左派が韓氏の作風を政治利用しやすくなり、青少年たちにとって作品は何の疑いもなく左翼史観に引き込まれていくテキストの役割をしてしまうことだろう。
革新系野党・祖国革新党の曺国代表は、自身のSNSで00年に韓国人初のノーベル賞(平和賞)を受賞した金大中大統領と韓氏が共に光州事件と深い関係があることに触れ、「5・18(光州事件)が我々に二つのノーベル賞をもたらした。5・18(の軍事政権反対の精神)は憲法前文に盛り込まれるべきだ」と述べた。ここには、遡(さかのぼ)れば当時の軍事政権の流れを汲(く)む尹錫悦政権を違憲集団と見なそうという思惑が隠されているようだ。