【ポイント解説】朝鮮の美に光当てた日本人
最初に紹介したいのは浅川巧が葬られた韓国ソウルの忘憂歴史文化公園である。『朝鮮の土となった日本人』(高崎宗司の著書名)とまで言われる巧は亡くなると帷子(かたびら)でなく朝鮮服で旅支度をしソウル郊外清涼里の共同墓地に葬られた。同墓地がその後、柳寛順など“独立運動家”や文化芸術、社会活動家などが埋葬される特別な場所になってからも、巧の墓が移葬されずに残されていることに、巧への深い愛が感じられる。
巧は「あの朝鮮人は随分国語(日本語)がうまいね」と言われるほど、日本人も朝鮮人も勘違いするくらい、言語はもちろんしぐさから感性に至るまで現地に溶け込んでいたと高崎は書いている。
「朝鮮の美」といえば柳宗悦が第一に挙げられるが、きっかけを作り朝鮮の地で“発掘”したのは浅川兄弟、特に兄の伯教(のりたか)であった。日本で展覧会を開いたのも、朝鮮で展覧会を開いたのも、柳や彼ら日本人が最初だったというところに歴史の皮肉がある。朝鮮人にとって日用品で当たり前だった物に価値を認め、広く知らしめたのが当時の支配者日本人だったのだ。
柳、浅川兄弟が設立した朝鮮民族美術館が終戦と同時に閉館してしまったのは残念だが、日本時代の日本人の手になるものを消し去ろうとする心理は理解できる。だが、その後の管理が杜撰(ずさん)なために散逸していった物が多い。この「ペゲンモ」と言われる一対の装飾品がソウルの国立中央博物館と東京駒場の日本民藝館に一つずつあるのはそのためだ。分かれてあるからこそ、深い縁(えにし)を感じさせる。記事は100年の時を経て先人の想(おも)いに目を向けさせた。
(岩崎 哲)






