芸術を媒介に平和共存願う
「白磁青華陽刻牡丹紋ペゲンモ」は韓国の国立中央博物館の所蔵品だ。ペゲンモは枕の両端に付けて形を整えたり飾ったりするもの。二つで一対だが同博物館にあるのは一個だけだ。東京の日本民藝館にほとんど同じペゲンモがあり、この二つが一対だった可能性があるという。一対だったものがなぜ韓国、日本に分かれて置かれるようになったのか。朝鮮民族美術館が二つのペゲンモをつなぐ輪だ。同美術館にあったものが、ある時、別々になったのだ。
朝鮮民族美術館は日本民藝館の設立者、柳宗悦(やなぎむねよし)、朝鮮陶磁器など工芸品研究に邁進(まいしん)した浅川伯教(のりたか)、巧(たくみ)兄弟が造って運営した博物館だ。1924年4月、景福宮緝敬堂に開館した。
日本民藝館が特別展「柳宗悦と朝鮮民族美術館」を今月15日から始め、ちょうど100年前の話の意味を再確認させている。1914年、伯教が贈った陶磁器を見て朝鮮工芸品の魅力にすっかりはまった柳は20年、巧と朝鮮民族美術館の設立を計画したという。東京でなく京城(現ソウル)に建てて、民族芸術として朝鮮特有の美しさを見せる作品を収集することにした。過去を顧みるだけでなく新しい作品が出てこられるように朝鮮人を刺激できる機関になることも希望した。
設立以前から柳は朝鮮、日本で展示会を開いて朝鮮の芸術品を知らしめた。21年に東京で開いた「朝鮮民族美術展覧会」は「朝鮮時代の美術と工芸を対象にした世界最初の展覧会」だった。翌年、京城黄金町(今の乙支路)で開催した「李朝陶磁器展覧会」は「朝鮮の地で開かれた初めての朝鮮陶磁器展示会」だという。
朝鮮民族美術館の設立はこうした流れのハイライトといえる。講演会、音楽会、著述等を通して得た自身の収入を投じた柳をはじめ志ある日本人と独立活動家やキリスト教指導者など朝鮮人の後援者が力を合わせて成し遂げた結果であった。
開館当時、朝鮮民族美術館は朝鮮時代の陶磁器を中心に木工芸品、金属工芸品、絵画、彫刻など約1000点を所蔵していた。1年に2回展示会を開き、管理は京城に居住する浅川兄弟が担当した。
45年の解放と共に朝鮮民族美術館は閉館した。伯教が1年ほどをとどまって所蔵品の整理を行った。これらは国立民族美術館へ移管され、国立博物館南山別館にまた移った。韓国動乱で一部が失われたが国立中央博物館に伝えられて今日に至っている。
厳酷だった日帝強制占領(日本統治)期間にも韓日両国が平和に共存しようと願った動きはあった。朝鮮民族美術館には芸術を媒介にその動きが現実になるよう努力した人々の話が込められている。1世紀前の朝鮮民族美術館設立を顧みる意味はその心を思い起こすことにあるようだ。
山梨県北杜市には「浅川伯教・巧兄弟資料館」がある。1931年に京城で亡くなった巧はソウルの忘憂歴史文化公園に眠っている。
(姜具烈東京特派員、6月24日付)