最近、私事で韓国に行ってきた。久しぶりにソウルの地下鉄に乗ると、日本の退勤前の時間帯ぐらいの混み方だったが、座っている人(たいていはスマホを見ている)も、立っている人も皆静かで、老人に席を譲る若い女性もいた。
日本で見掛ける当たり前のような地下鉄内の風景だが、1990年代初めから15年ほどソウルで暮らした筆者にとって、その静けさは驚きだった。
2000年を過ぎた頃でも、地下鉄に乗ると、誰彼構わず携帯で通話したり、仲間内で周りを気にせず話し込んだりしていた。また、アジュンマ(おばさん)の一群がドカドカと乗り込んできて空いた席の争奪戦を繰り広げるのも、日常的に目にしていた。
慣れてくると、そのエネルギッシュな騒がしさ、周りの目を気にしない自由さに、何となく心地良さを感じるようになる。当時、時たま日本に戻って静かな地下鉄に乗ると、かえって不思議な感じがしたものだ。
しかし、日本の地下鉄が静かなのはずっと昔からではない。
「ねえ君、何話してるの/だからさ、聞き取れないよ/もっと大きな声で、もっと大きな声で/でなけりゃ、次の駅に止まったら/走り出すまでの、あのわずかな静けさに話そうか…」
1972年ごろから歌われた「猫」の『地下鉄にのって』の歌詞だ。当時の地下鉄(丸ノ内線や銀座線)が、車輪のキイキイいう音でとんでもなくうるさかったことを伝えている。筆者が東京に出てきた76年ごろも同じようにうるさい上に、電車が駅に着くたびに電灯が消えて真っ暗になり、非常灯がついていた。
今の快適な地下鉄からすると隔世の感がするが、四国の田舎出身の筆者は、その騒々しさに文明を感じていた。何しろ、あの列車が地下を走っているのだから…。これから10年、20年後に、世の中はどう変わっているのだろうか。
(武)