権力追求の利益集団に
1990年、43歳の若さで世を去った趙英来(チョヨンレ)。彼は韓国人権弁護士の象徴だ。1988年「民主社会のための弁護士会」(民弁)創立の礎を築き、名称まで直接付けた。弁護士生活は8年にすぎなかったが、記念碑的な足跡を残した。国内の集団訴訟の発端とされる望遠洞水害事件、環境被害訴訟の始まりと評価される上鳳洞じん肺症事件で勝訴し、司法の歴史の新しい地平を開いた。
理念指向性一辺倒でない点は趙英来をさらに輝かせる。バランスの取れた判断力を備え、ドグマに陥らなかった。社会主義体制の矛盾を正確に見抜いていたことだけを見ても、それが分かる。彼は「社会主義圏はもう終わりつつあるのに、韓国の若者たちは私の話までも信じようとしないのは残念だ」とまで語ったと、南時旭(ナムシウク)元東亜日報編集局長は証言する。運動圏(労働・学生活動家)が社会主義体制に対する幻想を破ることができないことへのもどかしさがにじみ出ている。
その趙英来精神の産物である民弁が危機に直面している。4月総選挙の「共に民主党」公認過程で民弁出身者たちの恥知らずな言動が相次いで明らかになり、公憤を呼び起こした。
多数の不動産を「ギャップ投資」で保有する李瑛善(イヨンソン)弁護士は党公認審査の時、虚偽の財産保有現況を提示したことが後に判明し、公認が取り消された。
小学生女児に対する性犯罪者を弁護しながら、2次加害になる発言で物議を醸して候補を辞退した趙修真(チョスジン)弁護士も民弁出身だ。人権弁護士だと自身を誇らしく紹介するが、弁護方式は反人権的だ。
「基本的人権の擁護と民主主義の発展に寄与することを目的」とするという民弁の会則は装飾品にすぎないのか。趙英来が生きていれば絶望するだろう。道徳性を重視し、金と権力の追求を警戒した趙英来と反対の道を進んだ結果である。政界入りに向けたスペックづくりとして民弁に加入したのかと問わざるを得ない。
最も理解できないのは国家保安法廃止を主張し、スパイ容疑者の弁護を引き受けて、従北論議を巻き起こしている民弁弁護士らがいるという点だ。趙英来が民主陣営の社会主義体制偏向に対する心配を吐露して35年が過ぎたが、今でもこういう人たちがいるのは驚くべきことだ。
民弁出身の民主党、李在明代表は趙英来事務所で司法修習生として実務修習を行った縁を誇り、趙英来を尊敬していると言う。しかし、彼の司法リスクほど趙英来精神に泥を塗ることを見いだし難いのは、アイロニーだ。
民弁の政治化が根本原因だ。民弁出身の盧武鉉元、文在寅前大統領の政権で民弁出身が大挙要職に進出し、組織が人権擁護よりは権力を貪(むさぼ)る「政治士官学校」に堕した感じだ。民弁は初心を失って権力を追い求める利益集団に変質したのではないか、省みなければならない。身を切る組織刷新が伴わなければ、これ以上、人権と民主、公正と正義を口にしてはならないだろう。
(金煥基論説室長、4月2日付)