
北朝鮮住民が真実の情報に触れるきっかけつくりとなる、韓国側からのビラ散布や拡声器を利用した放送が、散布を禁じた法律の一部に違憲判断が出されたことなどで再開される可能性が出てきた。北の一般住民は今なお極端な情報統制下で自国の独裁体制がいかに劣悪で矛盾しているか十分認識できずにいる。ビラや放送には彼らを覚醒させる役割が期待されている。(ソウル・上田勇実)
韓国憲法裁判所は先月下旬、「南北関係発展に関する法律」に軍事境界線付近における北朝鮮向けビラ散布などを禁止する条項を盛り込んだ改正法を巡る違憲審査で、判事9人のうち7人が「表現の自由を侵害する」とし、違憲の判断を下した。
これまで散布する地点の付近に暮らす住民の身辺安全を理由に散布に難色を示してきた韓国政府も、今回の違憲判断を受けて散布を自制するよう促さない意向を明らかにした。
改正法は「対北ビラ禁止法」とも呼ばれ、成立直後に保守系弁護士団体などが違憲審査申し立てを行っていたが、3年近くも事実上保留にされたままだった。
対北ビラ禁止法は2020年、北朝鮮の金正恩総書記の妹、与正氏がビラ散布に反発し談話で「禁止法を作れ」などと言及したのがきっかけ。対北融和主義の文在寅政権が直ちに法改正に着手し、保守系野党(当時)の議員らが欠席する中、国会で成立した。このため一部で「金与正下命法」と揶揄(やゆ)された。
改正法の成立で、違反者には3年以下の懲役または3000万ウォン(約330万円)の罰金が科せられることになっていた。
改正法成立の背景には、18年以降に北朝鮮が仕掛けて高まった南北融和ムードもあった。特に同年9月の南北首脳会談での軍事合意は、双方が「地上と海上、上空をはじめ全ての空間で軍事的緊張や衝突の根源となる、相手に対する一切の敵対行為を全面中止することにした」ため、対北ビラ散布は違反行為とみなされるようになっていた。
韓国民間レベルの対北ビラ散布は脱北者を中心に行われている。3代世襲や独裁体制の批判などを記した数千枚のビラや「経済発展した南朝鮮(韓国)」を視覚的に訴える映像などを保存したUSB、米ドル紙幣などを入れた袋を、長さ10㍍ほどの長円形の大型風船にくくり付け、風向きを考慮して北朝鮮に飛ばす。タイマーが設置され、時間になると上空で袋の中身が地上に落ちる仕掛けになっている。
日本の市民団体の働き掛けで、一部ビラには拉致被害者の個人情報や失踪時期、特定失踪者のリストを記したものもあり、情報提供者には報酬を出すと呼び掛けている。
ビラ散布を行っているのは、先駆けた「対北風船団」の李民馥団長、2000年代から本格的に始めた「自由北韓運動連合」の朴相学代表の2氏が中心。以前は北朝鮮に近く、厳密な風向きを計算しなくても北朝鮮に届く確率が高かった黄海の白●(=「令」に「羽」)島から風船を飛ばしていた。
しかし、「金大中大統領が金正日総書記と会談して以降、同島から飛ばせなくなった」(朴氏)ため、その後、軍事境界線に近い京畿道の坡州や江華道から飛ばすようになった。
今回の違憲判断は2氏にとって追い風になりそうだ。
特に朴氏の場合、20年に文政権から「非営利法人設立許可」を取り消された問題で、処分取り消しを求めた提訴で大法院が今年8月、下級審の原告敗訴を破棄し、「許可維持」を趣旨とする調整勧告案を示した。文政権によって付けられた「くびき」がようやく外されることになる。
一方、軍事境界線付近で韓国軍が実施してきた拡声器による対北放送も再開されるとの見方が広がっている。
北朝鮮が際限なく核・ミサイルの脅威を高め、緊張緩和で合意したはずの18年の軍事合意はもはや有名無実化したも同然。尹錫悦大統領は昨年、合意見直しを検討するよう指示している。
尹政権としては、北朝鮮がまた無人機を韓国領空に侵犯させるなど軍事的挑発を繰り返し、韓国側が合意の効力を停止させた場合、対北拡声器放送を即刻再開させることは可能と考えているという。