景福宮の歴史性取り戻す
最近、光化門の前が以前とは違っている。文化財庁とソウル市は光化門の月台(正殿前に張り出した台)復元のために直線だった光化門前の道路を丸く迂回(うかい)させたのだ。なぜ通行する道路を使いにくくするのかと不平を言う人も少なくない。
光化門は朝鮮最高の宮殿だった景福宮の正門らしく、他の宮殿の正門より規模が大きいだけでなく、石垣の上に門楼を建てて形式も変えた。宮殿の門は宮殿内の他の殿閣と違って民衆が直接見ることができる建築物であり、王室の権威を現すのに適したためだ。
景福宮の正門である光化門は、拱門(アーチ形の門)を三つ持つ勇壮な石垣とそれにふさわしい中層門楼を設け、宮殿の他の門と差別化を図った。これと共に光化門の前には長さ45㍍、幅30㍍ほどの月台を南に突き出し、月台の終端から南に40㍍ほどの所に一対の「ヘチ」(想像上の動物像)を置いて宮殿の正面であることを極大化している。
現在、私たちが見る光化門は多くの迂余(うよ)曲折の産物だ。日帝は1916年、勤政殿と光化門の間にあった興禮門を壊して朝鮮総督府の庁舎を造り始め、1925年に完工した。総督府庁舎は朝鮮の象徴だった景福宮を隠すのに十分な大きさで、必要な位置であった。自ずとその前に位置した光化門は撤去の対象だった。
光化門撤去の消息を聞いた日本の美術評論家柳宗悦(やなぎむねよし)(1889~1961年)は22年、ある日本の雑誌に「失はれんとする一朝鮮建築の為に」という文を寄せて光化門の運命を哀悼した。
「光化門よ、長命なるべきお前の運命が短命に終わろうとしている。お前は苦しくさぞ淋しいであろう。私はお前がまだ健在である間、もう一度海を渡ってお前に逢いに行こう。お前は私を待っていてくれ。…」
柳の文が奏功したのか、日帝は撤去しようとする元来の計画を修正して26年から27年まで光化門を解体して(宮殿の東門)建春門の北側の宮荘(王族の土地)に移した。しかし、この光化門は50年の韓国動乱の際、石垣だけ残して燃えてしまった。その後、68年にコンクリートの光化門が本来の位置から少し張り出した位置に月台は省略して建てられた。この時は景福宮の正門でなく旧総督府庁舎を使っていた中央庁の正門と考えたためだ。
文化財庁は90年から景福宮の復元に着手し、95年には旧総督府庁舎を撤去し、その場に興禮門を復元し、その後、コンクリートの光化門を撤去して2010年に光化門を復元した。これまで景福宮の前を通る道路のため、先延ばしにしてきた光化門の月台をやっと今になって復元しようとしているのだ。景福宮の復元のために避けられなかったのが旧総督府庁舎の処理問題であった。90年代中盤、政府が旧総督府庁舎を撤去することを決めると、韓国社会はこの建物の処理問題を巡って撤去と保存で意見が分かれた。
光化門の月台は景福宮の正面を浮き上がらせ、景福宮の裏にある北岳山と調和して、ソウルの空間的アイデンティティーを引き立てる核心要素だ。少し遠回りする苦労を惜しまず光化門の月台を復元することこそが、ソウルの空間的アイデンティティーを守ろうとする努力なのだと考えられないだろうか。
(崔鍾悳(チェジョンドク)元国立文化財研究所長、4月4日付)