ドイツのメルツ政権は12日、スパイやテロ、サイバー攻撃など治安上の脅威に対処する情報機関の能力を大幅に引き上げるための法案を閣議決定した。ロシア軍のウクライナ侵攻以来、ドイツを含む欧州の安全保障は大きな挑戦に直面している。ロシアの脅威が高まる中、ドイツは戦後から安全保障に関連する情報を米国に依存してきたが、独自の情報機関の強化を求める声が高まってきていた。

ドイツはナチス政権や東ドイツ秘密警察(シュタージ)の負の歴史もあって、情報機関の権限を制限し、「情報の収集・分析」に徹してきたが、ウクライナ侵攻以降のロシアによるサイバー攻撃や破壊工作の増加、さらに同盟国(特に米国)への過度な依存に対する危機感から、ドイツの情報機関の強化を求める声が高まってきた。それを受け今回、米国型情報機関に質的大転換を実施していく意向を明らかにしたわけだ。具体的には、「情報収集・分析」から「情報工作(オペレーション)」を積極的に実施する本格的な情報機関への変貌だ。
ドイツには3つの情報機関が存在し、それぞれ特定の領域で活動してきた。今回の情報機関の権限強化の対象は①と②だ。
①連邦情報局(BND): 連邦首相府に属する対外情報機関。国外の政治・軍事・経済情報の収集やサイバー防衛を担当する。
②連邦憲法擁護庁(BfV): 連邦内務省に属する国内情報機関(カウンターインテリジェンス)。国内のスパイ活動、テロ、極右・極左過激主義の監視を行う。
③連邦軍軍事保安局(MAD): 国防省に属し、軍内部のスパイ対策や過激派排除を担当する軍事情報機関 。
直近の実例を挙げる。
ベルリンの治安当局は21日、武器の隠し場所を発見した。ドイツのメディアによれば、ドイツの国内治安機関である連邦憲法擁護庁は、この隠し場所がロシアの諜報機関のために設けられたものと見ている。保管場所はブランデンブルク州の森の中にあったという。ドブリント内相(CSU)によると、「発見された武器や弾薬は、明らかに計画的な攻撃を実行するために用意されたものだ」という。外国勢力の関与も排除していないという。
今回の情報機関の強化に基づいて、差し迫ったサイバー攻撃の兆候がある場合、BNDは敵対勢力のITシステムや国外のサーバーに侵入し、無力化・停止させる活動(ハッキング)を実施する能動的な防護措置が可能となる。また、監視制限の大幅な緩和、通信データの保存期間が延長され、通信内容は最長6カ月、IPアドレスや接続データは最長12カ月保存できる。具体的な脅威の兆候があれば、海外での秘密作戦や介入、武器の運搬手続きの簡素化を認め、実質的な「独自の防諜能力」を持たせるという。
ところで、BNDの情報機関としての「実力」はどうか。BNDは高度な暗号解読や、世界中の通信インフラから情報を集めるシギント(通信情報収集)で高い技術を有する一方、これまでは法的な制約(プライバシー保護やナチス時代の反省)から「攻撃を事前に検知しても、自らサーバーをハッキングして止める」ことができなかった。そのため、米国のCIA(米中央情報局)やNSA(米国家安全保障局)、英のMI6(対外秘密情報局)などに比べ「実戦力」で劣ると見なされてきた。
今回の法改正により、他国に頼らず自国で脅威を察知し、自らサイバー空間や海外で工作を阻止できる「本物の諜報機関」としての実力を持つことになる。この大改革は、市民のプライバシーや基本的権利を脅かすとして国内で物議も醸しているが、メルツ政権は「外国からのハイブリッド攻撃は極めて差し迫った危険である」として、強力にこの情報機関の武装化を推進していく決意だ。
参考までに、BNDが情報機関としてその実力を示したとされる事例を紹介したい。ドイツの情報機関はパンデミック初期(2020年)の段階で、新型コロナウイルスの起源に関する機密情報を入手し、欧米の他機関に先駆けて「武漢ウイルス研究所からの流出が高い確率で疑われる」とする内部評価をまとめていた。この評価は長らく非公開とされてきたが、2025年3月、ドイツの有力紙『ツァイト』や『南ドイツ新聞』がスクープとして報じたことで明らかになった。
報道によれば、BNDは2020年初め、新型コロナウイルスの起源に関する複数の機密資料を入手し、それらの分析に基づき、武漢ウイルス研究所(WIV)での事故がパンデミック発生につながった可能性を高い確度で評価したとされる。内部文書では、研究所起源説の確率を「80〜95%」と見積もったと報じられている。ただし、この評価はBNDが当時得ていた情報に基づく分析結果であり、科学的な確定的結論とは区別されるべきものである。
BNDの評価の根拠となったのは、公的データの分析に加え、「サーレマー(Saaremaa)」というコードネームで実施された極秘情報作戦で入手した資料であったと報じられている。これらの資料には、中国の研究機関、特にウイルス研究の中核を担う武漢ウイルス研究所(WIV)に関連する科学データが含まれていたという。また、自然界のウイルスを人為的に改変する「機能獲得(Gain-of-Function)」研究のリスクに関する内部文書や、研究所の安全管理上の問題を示唆する記録が含まれていたとされる。ただし、これらは「示唆的資料」であり、研究所の安全基準違反を直接証明する“証拠”として公式に認定されたものではない点には留意が必要である。
新型コロナウイルス(SARSーCoV-2)の起源調査をBNDに指示したのは、当時のドイツ首相府であった。メルケル政権下で、BNDはサーレマー作戦の成果と自らの評価を首相府に報告したとされる。しかし、首相府はこれらの情報を外交的配慮から非公開扱いとする判断を下した。報道では、メルケル政権が中国との関係悪化を懸念した可能性が指摘されているが、公式にその理由が明示されたわけではない。
トランプ米政権がスタートした直後の2025年1月25日、CIAは「入手可能な情報に照らすと、研究所起源説の方が自然発生説よりも高い可能性がある」とする新たな評価を示した。評価転換の具体的理由は明らかにされていないが、欧州の複数紙は、BNDが首相府に提出した資料が米側の判断に影響した可能性を指摘している。ただし、CIAがBND資料を直接参照したかどうかについて、公式な確認は得られていない。
独週刊誌『シュピーゲル』によれば、世界保健機関(WHO)のウイルス専門家は、BNDの評価をメディア報道を通じて知り、武漢ウイルスの起源問題に関する理解を深めたという。BNDの分析は公に称賛されることはなかったものの、これ以降、BNDの情報収集能力に対する外国情報機関の評価が高まったと報じられている。







