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ボスニア和平30年 虐殺否定論絶えず スレブレニツァで追悼行事 民族和解の道、依然見えず

11日、ボスニア・ヘルツェゴビナ東部スレブレニツァで、新たに特定されたジェノサイド犠牲者らの葬儀に参列する人々(EPA時事)
11日、ボスニア・ヘルツェゴビナ東部スレブレニツァで、新たに特定されたジェノサイド犠牲者らの葬儀に参列する人々(EPA時事)

第2次世界大戦後、欧州で起きた最大の民族戦争と呼ばれたバルカン半島のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で、ボスニアのセルビア軍が8000人以上のボスニャク人の男性と少年を虐殺した「スレブレニツァ虐殺」が起きて今月11日で30年。この日、ボスニア東部のスレブレニツァで追悼行事が行われたが、セルビア人の間では依然、虐殺を否定する声が絶えない。(ウィーン小川 敏)

スレブレニツァ虐殺については、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)が2004年に、その3年後に国際司法裁判所(ICJ)が「ジェノサイド(集団殺害)」と認定した。虐殺に関与したボスニアのセルビア軍の当時の指導者、ラドバン・カラジッチ受刑者と軍指導者ラトコ・ムラディッチ将軍ら数十人はICTYで有罪判決を受けている。

それに対して、セルビアのブチッチ大統領はボスニア紛争の再解釈を要求、スルプスカ共和国のドディク大統領は、ジェノサイドの否定が法律で禁じられているにもかかわらず、今日に至るまでジェノサイドを認めていない。

ボスニア紛争では20万人の犠牲者、200万人の難民・避難民を出した。1995年、パリでデイトン和平協定が締結されて一応終戦を迎えた。現在のボスニア・ヘルツェゴビナはボスニャク系(ボスニア・ムスリム)とクロアチア系両民族から構成されたボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とセルビア系のスルプスカ共和国の二つの主体からなる連邦国家だ。

オーストリア国際問題研究所(OIIP)のボスニア問題専門家、べドラン・ジヒッチ氏はオーストリア国営放送(ORF)で、「スレブレニツァ虐殺は歴史的に事実として認知されているが、その過去の記憶に対してボスニアでは依然共有されていない」と述べている。同氏によると、ボスニアで過去の出来事に対する記憶の共有も可能だという声が政治レベルや市民社会レベルで聞かれたことがあったが、「最近は、その声は後退してきた」という。

国家の統合には歴史の共有が不可欠だ。その役割を担うのが学校では歴史教育だが、ボスニアでは、教科書も中央政府によって統制されておらず、各機関の責任となっている。そのため、クロアチア人、ボスニャク人、セルビア人の生徒は、ボスニア紛争だけでなく、スレブレニツァでの大量虐殺についても、それぞれ異なる物語を教えられている。

国際的な圧力を受けて、2003年に中央慰霊碑がスレブレニツァから数㌔離れたポトチャリに開設され、そこには約7000人の犠牲者が埋葬されている。また、国連総会は、7月11日を「スレブレニツァ虐殺の国際追悼の日」とする決議を採択している。

デイトン和平協定は3民族間の紛争を停止させたが、民族間の和解の道は依然見えず、スルプスカでは協定から離脱する動きが出てきている。ウィーン国際比較経済研究所(WIIW)の上級エコノミスト、ウラジミール・グリゴロフ氏は、「ボスニアがうまくいかない最大の原因はデイトン和平協定だ」と断言、協定がその後の国の発展を妨げる最大の障害となっていると主張している。

ウォルフガング・ぺトリッチュ元ボスニア和平履行会議上級代表は05年、筆者とのインタビューで、「ボスニアでは冷たい和平が支配している。ボスニア紛争は内戦だった。外部の侵略を契機に始まり、勝利者と被占領者に分かれる戦争とは異なり、内戦には勝者はなく、敗者しか存在しない」と語り、「冷たい和平」の前途が厳しいことを示唆した。スレブレニツァ虐殺から30年が経過したが、民族間の「温かい和平」はまだ程遠い。

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