
ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇の死去を受けて、次期教皇選出のコンクラーベに世界の関心が集まっている。理由の一つはトランプ米政権の登場で世界的に不透明感が高まる中、ウクライナ紛争、イスラエル・ガザ戦争、果ては米中貿易戦争まで、解決が極めて困難と思われる難問に遭遇する中で、宗教の役割が再び注目を集めているからと言えそうだ。フランスから報道を中心にまとめた。(パリ安倍雅信)
フランシスコ教皇は、死の直前まで毎日、イスラエルのガザに電話し続けたと伝えられる。ガザにはカトリック教徒がいるだけでなく、毎日、イスラエルからの攻撃を受け、子供を含む一般市民が殺害されていることに心を痛めていたからだと伝えられる。
社会の隅に追いやられた人々を一人にはしないという「民衆の教皇」らしい一貫した姿勢が垣間見える。無論、現実世界の政治や経済に直接影響を与える力を宗教は持たないが、独立主権国家バチカン市国の主権者でもあるフランシスコの影響力が皆無だったというわけではない。
フランシスコの社会問題へのコミットメントは近年では特筆すべきものだった。南米初の教皇は社会の不平等の是正に注力する南米生まれの解放神学の影響を受けた初めての教皇といわれる。解放神学は抑圧的な社会経済構造により排除され、権力者に支配されている人々を福音的な救済のメッセージにより解放する運動だった。
その社会問題へのコミットメントは、カトリックの左傾化を警戒する伝統保守派から警戒された。例えば、日本カトリック教会も反「君が代」、反天皇制、反自衛隊の左翼運動と結び付き、教会の左傾化に勢いをつけた経緯がある。反権力的運動を助長するマルクス主義、左翼のリベラルな階級闘争が盛んだった1970年代、南米カトリックは解放神学の強い影響下にあった。
他の南米諸国同様、特にアルゼンチンで続いた76年から83年までの軍事独裁政権は、3万人が行方不明になったとされる残酷な統治が続いた時期として記憶される。フランシスコがベルゴリオ(本名)としてアルゼンチン管区長、司祭、神学校の神学科・哲学科院長を務めていた時期と重なる。
そもそもラテンアメリカはマリア信仰が強く、夫婦や貧富の差の葛藤を解く「癒やしの使命」がカトリック教会にはあるとの思いが強い。貧者に寄り添い、富裕層や権力者には敵対することが多かった。そんな土壌から、独裁政権に苦しむ民衆を解放しようという解放神学の浸透は、東西冷戦下の世界に共産主義の嵐が吹き荒れた時期とも重なる。
一方、同時にカトリックが左傾化し、神を否定する左派リベラルが社会に浸透する中、解放神学はカトリック社会主義として保守派からの批判の的にもなり、反共で有名なポーランド出身のヨハネ・パウロ2世教皇は当時、解放神学の排除に動き、その後を継いだベネディクト16世教皇も同性愛や人工中絶に寛容な姿勢を示さなかった。
解放神学の提唱者の1人、ペルー出身の神学者のグスタボ・グティエレス司祭は、昨年96歳で他界し、解放神学の一時代の終焉(しゅうえん)を迎えた。同司祭の息のかかったフランススコも他界した。5月7日に始まるコンクラーベで投票権を持つ135人の枢機卿の78%は、フランシスコが任命している。
フランシスコの功績の一つは、聖職者としての行動力だった。行動する教皇として知られ、カトリックの教義の体現者として宣教の前線に常に立っていたと言われている。聖職者本来の姿は、前線主義でキリストの教義を体現し、権威主義に陥らないことだ。
4月26日のバチカンでのフランシスコ教皇の葬儀には、想定をはるかに超えた多くの若者が参加したと言われる。理由は他宗教者から無神論者までを排除する閉鎖性の扉が解放され、多様性に門戸が開かれたからとも言われている。そこには「信仰を持つことは喜びにつながる」と言ったフランシスコのポジティブ思考も影響している。