
コンクラーベという言葉はラテン語で「鍵をかけて」という意味だ。フランシスコ教皇が亡くなって以来、メディアの関心は次期教皇選出会のコンクラーベに集中してきた。
世界約14億人の信者を誇るローマ・カトリック教会の最高指導者、ペテロの後継者のローマ教皇に誰が選出されるかは、信者でなくても関心がいくものだ。ローマ教皇は単に宗教指導者だけではなく、世界の政情にも大きな影響力を有する政治的指導者の面がある。
「私の審判官であるキリストが、私が神の意思と一致すると信じる人物に投票したことの証人である」
コンクラーベで枢機卿が投票用紙に支持者名を記入した後、祭壇の投票箱に入れる前にこのように宣誓する。そこには「打算や自身の思いではなく、神のみ心を考えて投票しました。キリストこそ私の証人です」といった内容が含まれている。
コンクラーベに参加する枢機卿は個人的にはその信仰生活の頂点に立っている、といった高潮した思いもある一方、体力的にはハードなケースが多い。例えば、75歳以上の高齢者が縦40.9メートル、横13.7メートル、高さ20.7メートルのシスティーナ礼拝堂に隔離状況で長時間、瞑想と投票を繰り返す。体力の消耗も激しい。もちろん、食事、宿泊場所は別だが、テレビ、新聞、携帯電話、ノートパソコンなどは持ち込み厳禁。参加枢機卿との会話以外は外部と接触できないため気分転換も難しい。前回のコンクラーベでは、ミサ中、1人のコンクラーベ参加枢機卿が一時、失神した。疲れとストレスからだ。ただし、病気で倒れても、その枢機卿がローマ入りした後ならば病床からも投票を行使できる。
いずれにしても、ローマ教皇となるため生まれてきた人はいない。ホルへ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿(76)もローマ教皇となるために生きてきたわけではない。フランシスコ教皇が愛するアッシジの聖フランシスコも若き時代、放蕩息子で好き勝手に生きてきたが、ライ病患者や貧者をみて改心していった。フランシスコ教皇も若い時、肺炎で一部肺を切り落としたことが契機となって、神の世界に入っていった。次期教皇に選出される枢機卿にも同じようなドラマがあるはずだ。
現在のようなコンクラーベが誕生するまでには長いプロセスがあった。初期キリスト教時代にまで遡る。初期キリスト教では、教皇はローマの聖職者や信徒、時にはローマ帝国の承認によって選ばれた。 初期には信徒も選挙に参加しており、教会全体で教皇を選ぶことが一般的だった。
しかし、時代が進むにつれ、世俗権力(特に東ローマ皇帝や神聖ローマ皇帝)が教皇選出に大きな影響を与えるようになり、政治的干渉が増した。それが11世紀に入ると、教皇ニコラウス2世が発布した勅令In Nomine Dominiにより、教皇選出の権限がローマの枢機卿団に限定された。これがコンクラーベ制度の起源だ。
ルネサンス時代 (15~16世紀)に入ると、教皇職が政治的にも経済的にも強大化し、教皇選挙がますます政治化した。選挙活動において贈収賄が横行し、一部の教皇は強い世俗的な支持を得て選ばれた。トリエント公会議(1545~63年)で改革の要求が出てきた。教皇選挙をより霊的で公正なものにする改革が求められた。
19世紀初頭、ナポレオンが教皇選挙に干渉したことで、政治からの独立が再び課題となった。20世紀に入り、現代のコンクラーベが確立していく。1970年には選挙権を80歳未満の枢機卿に限定された。教皇死去または退位後、全枢機卿団が召集され、15~20日以内にシスティーナ礼拝堂で選挙(無記名投票)が行われ、当選には投票者の3分の2以上の賛成が必要となった。
イタリアのメディアによると、今回のコンクラーベは短期間で終わるだろうという。なぜならば、参加する枢機卿の3分の2以上がフランシスコ教皇によって任命された聖職者だから、教会路線はほぼ同じで、教会の運営で激しい対立はないからだというわけだ。