
ロシア軍が、ウクライナ侵攻開始日に占領した黒海の要衝ズメイヌイ島から撤退した。ロシアは、ウクライナからの穀物輸出のための人道回廊設置という「善意の印」による撤退としているが、背後にトルコとの取引があった可能性が指摘されている。ロシア国内に目を向ければ、戦争の長期化を見据え、議会で事実上の「戦時経済体制法」の審議が進み、連邦保安局(FSB)など治安機関が反対派摘発を強化している。(繁田善成)
「くたばれロシア軍艦」。ロシアがウクライナに侵攻した2月24日、ルーマニアに近い黒海に浮かぶズメイヌイ(スネーク)島の13人のウクライナ国境警備隊員が、ロシア軍艦の投降呼び掛けに先のように回答し、抵抗の末捕虜となったことは記憶に新しい。
ロシア軍は6月30日、このズメイヌイ島からの撤退を発表したが、その理由を「ウクライナから穀物を輸出する人道回廊をつくるための善意に基づく行為」と説明した。
実際には、島に駐留するロシア軍部隊が孤立し、さらに、ウクライナ軍の攻撃が強まったことが撤退の理由の一つとみられるが、それだけではなさそうだ。
緒戦でロシア軍がキーウを目指し侵攻する中で、ロシアとウクライナは3月末にトルコのイスタンブールで停戦交渉を行った。この交渉でロシアは、2015年に締結された「ミンスク2合意」に代わる「イスタンブール合意」に向けた交渉プロセスの開始を目論(もくろ)んでいた。
親ロシア派武装勢力が支配するウクライナ東部の2地域に「特別な地位」を与え幅広い自治権を認めるミンスク2合意は、ウクライナの北大西洋条約機構(NATO)加盟を阻止する仕組みであり、ロシアに有利な内容だったが、ウクライナ侵攻により破棄された。
ロシアはウクライナ北部からの撤退と引き換えに「イスタンブール合意」への交渉プロセスを開始する目論見だったが、ロシア軍撤退後に明らかになったキーウ郊外のブチャやイルピンでの虐殺が、それを葬る形となった。
今回のズメイヌイ島撤退にも、背後に思惑が見え隠れする。
ウクライナのオデッサ港からの穀物輸出再開に欠かせないのが、ズメイヌイ島からのロシア軍撤退による海域の安全確保であり、この穀物輸出再開に強い利害を持つのが、ロシアとウクライナの仲介役となっているトルコである。
トルコは東地中海の石油・ガス資源をめぐり、トルコと歴史的に対立するギリシャがイニシアチブをとる「東地中海ガスフォーラム」加盟のエジプトなど七つの国・地域と対立関係にある。一方でエジプトなどは、ウクライナからの穀物供給が途絶えたことで食糧価格が高騰し、国内が不安定化していた。
トルコはウクライナの穀物輸出を再開させることで、エジプトなどを取り込み、ギリシャと、他の「東地中海ガスフォーラム」加盟国を分断することができる。
トルコとロシアの交渉の内容は明らかにされていないが、トルコがシリア北部での軍事作戦を延期したことが、露軍のズメイヌイ島撤退との取引材料だったとの見方が流れている。トルコがシリア北部に侵攻すれば、ロシアが後ろ盾となっているアサド政権を不安定化させるが、ロシアはウクライナ侵攻で手いっぱいで、アサド政権を助ける余裕はない。
ズメイヌイ島から撤退する一方で、ロシアはウクライナ東部で攻勢を強め、ルハンスク州全体を支配下に収めた。ショイグ国防相はプーチン大統領に「ルガンスク(ルハンスク)解放作戦に成功した」と意気揚々と報告し、ロシア大統領府のペスコフ報道官は「ウクライナとの和平交渉を行う見通しはない」と強気の姿勢を示した。
停戦が見通せない中で、ロシアは侵攻の長期化を見据えた準備を進めている。ロシア下院は5日、政府にロシア軍を支えるための「特別措置」を発動する権利を与える法案を全会一致で基本採択した。成立すれば、政府が企業に軍への物資供給を指示できるほか、従業員の労働時間を政府が決定し、休日なしで労働させることも可能となる。