未曽有のテロ 問われた対応 日本大使公邸占拠  解決から25年

救出作戦 政府は蚊帳の外-ペルー

ペルーの特殊部隊が突入し、黒煙を上げるリマの日本大使公邸=1997年4月22日(時事)

【リマ時事】25年前の1997年4月22日午後3時23分(日本時間23日午前5時23分)、南米ペルーの首都リマにある日本大使公邸で突然、複数の爆音がとどろき、特殊部隊員が煙に包まれた白亜の建物に突入した。窓から次々飛び降り、搬送される人質。左翼ゲリラ「トゥパク・アマル革命運動(MRTA)」による127日間にわたる公邸の武装占拠事件は、人質72人中71人の生還という劇的な解決をみた。

前年12月17日夜の天皇誕生日の祝宴のさなかに発生し、一時600人以上の人質が取られた未曽有の事件。MRTAは収監中の最高幹部の釈放や「戦争税」支払いを要求し、日本政府は一貫して対話による「平和的解決」を主張した。

しかし、ペルーのフジモリ大統領(当時)は当初から突入を準備。MRTAの要求をはねつけ、交渉を長引かせる裏で、公邸地下に秘密裏に複数のトンネルを張り巡らせた。

支援物資に隠して邸内に持ち込んだ盗聴器などでゲリラの動静を把握していたフジモリ氏は、人質の忍耐が限界に近づいたとみて、救出作戦「チャビン・デ・ワンタル作戦」を発動。MRTAの14人全員を殺害した。激しい銃撃戦では、人質だったペルー最高裁判事と特殊部隊員2人も命を落とした。

日本の領土と見なされる在外公館敷地内で敢行された作戦は、日本政府には一切知らされていなかった。突入自体は「世界で最も成功した救出作戦」とたたえられ、フジモリ氏の株は大いに上がった。しかし、蚊帳の外だった日本政府は情報収集能力や危機管理能力を問われる事態となった。

当時、内閣官房副長官秘書官として首相官邸と外務省の意思疎通に努めた片山和之駐ペルー大使は、赴任が決まった際「ああ、あの国に行くのだな」と気が引き締まる思いがしたという。片山氏は「日本政府が責任を持つ行事での不幸な事件であり、深い反省があった。テロへの姿勢や在外公館警備などに大きな影響を与えた」と振り返る。

事件後、自粛が続いた天皇誕生日のレセプションは2003年、移転した新公邸で昼に開催する形で復活。16年になって、事件当時と同じ夜に移行した。旧公邸は事件後間もなく取り壊され、12年に民間企業に売却されたが、今も更地のままだ。

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