
フィリピン南部ミンダナオ地域で、イスラム勢力との紛争に終止符を打つべく進められてきた政府とモロ・イスラム解放戦線(MILF)の和平プロセスが、危機的状況に陥っている。この和平の停滞によって生じた「治安の空白」に、中東情勢の混乱に乗じて再編を目指す過激派組織「イスラム国」(IS)が再浸透する懸念が高まっている。(マニラ福島純一)
今年2月、主要な和平監視団体である「自律とガバナンス研究所(IAG)」および「気候・紛争アクション・アジア評議会(CCA)」は共同声明を発表し、「バンサモロ和平プロセスは崩壊の瀬戸際にある」と極めて強いトーンで警告を発した。
この危機の背景には、バンサモロ・ムスリム・ミンダナオ自治地域(BARMM)初の議会選挙が、当初予定の2022年から延期を繰り返し、今年3月現在も事実上の無期限延期状態にあることが挙げられる。危機の直接的な引き金となったのは、マルコス政権によるBARMM暫定首相任命を巡る強引な政治手法だ。
これを受けMILFは、政府による元戦闘員への社会経済支援が極めて不十分であることを理由に、和平の要である「戦闘員の武装解除」を停止する措置に出た。数万人規模の元戦闘員が社会復帰を果たせぬまま、政治的不満を抱えてとどまり続けており、これが統治の及ばない危険な「治安の空白」を形成している。
こうした民主的プロセスの遅延が元戦闘員たちの不安を高め、居場所を失った彼らが「過激主義の温床になる」可能性が再び高まっているのだ。
和平をさらに危うくしているのが、MILF内部での「派閥争い」の激化で、組織内部の統制が著しく揺らいでいる。末端の指揮官同士による土地争いや利権を背景とした武力衝突が相次いでおり、25年後半から26年にかけて、異なる派閥のMILF部隊による交戦で住民が避難を余儀なくされる事態が常態化している。こうした組織の足並みの乱れは、ISのような外部勢力が地域に浸透するための格好の「隙」となっている。
実際に、MILFから分離した「バンサモロ・イスラム自由戦士(BIFF)」や、17年の「マラウィ封鎖事件」を起こしたマウテ・グループは、ISに忠誠を誓う武装組織だ。現在は政府の掃討作戦により弱体化しているが、IS本部からの資金や工作員の流入があれば、急速に勢力を回復させる恐れもある。
歴史的にミンダナオ地域は、ISにとって単なる潜伏先ではなく、東南アジアにおける「爆弾製造の訓練場」として、軍事技術を伝授する国際的なハブとなっていた。現在、中東情勢の混迷に乗じて分散したIS工作員が、監視の薄い海路を使い、再び浸透するリスクは極めて高い。
この懸念が単なる推測でないことを裏付けたのが、25年12月にオーストラリアのボンダイビーチで発生した銃撃テロ事件だ。ISの旗を掲げて15人を殺害した親子は、テロ決行の数カ月前にフィリピンを訪れていた。
さらに3月には、フィリピン国家警察がミンダナオの南サンボアンガ州で、この親子の協力者とみられるヨルダン人を逮捕した。現地の事業を隠れみのに「テロ細胞」の構築に関与していたとされ、逮捕によって、ミンダナオが再びテロ志願者の訓練場となる可能性を依然としてはらんでいることが浮き彫りになった。
中東におけるISの封じ込めは、単なる一地域の紛争解決ではない。それは、テロの資金や技術という「火種」が、ミンダナオを通じてアジアへ流出するのを止めるための、不可欠な「上流対策」である。
日本も長年、「日本バンサモロ復興開発イニシアティブ」(J―BIRD)を通じて元戦闘員の社会復帰や行政能力向上を支援してきたが、現在の和平の停滞の下では、これまでの支援の成果が無駄になりかねない。フィリピン政府が和平プロセスを前進させ、この危険な空白を埋めることは、ミンダナオの平和のみならず、アジア全体の安全保障を守る「防波堤」を構築する上で不可欠である。






