
フィリピンは今、「見えない侵略」の最前線に立たされている。南シナ海での物理的衝突に呼応するように、デジタル空間では中国による「認知戦」が激化。マルコス政権を揺さぶり、社会を内側から崩壊させようとする工作が、国民の生活と政治判断の場に深く食い込んでいる。(マニラ福島純一)
工作の象徴は大統領の「重体説」だ。中国系動画投稿アプリ「TikTok(ティックトック)」などを通じ、精巧に捏造(ねつぞう)された診断書が拡散された。2025年の施政方針演説直前には、人工知能(AI)で作られた大統領の「薬物使用動画」も組織的に拡散された。国家警察は、これらを「国家の不安定化を狙った組織的工作」と断定し、捜査を進めている。
中国による認知戦の本質は、かつてのプロパガンダのような「説得」ではない。SNSを使った情報の洪水により、人々の「真偽の判断をまひさせ、社会を分断する」ことにその核心がある。
背景には、中国系の工作ネットワーク「スパムフラージュ」の存在に加え、親中派のドゥテルテ前大統領支持グループによる関与も指摘される。リサ・ホンティベロス上院議員は、「情報の真偽以前に、国民の脳がハッキングされている」と、浸食の速さに強い危機感を募らせている。
情報戦は現実の破壊活動にも及ぶ。25年末にマニラで頻発した反汚職デモでは、一部が暴徒化した。国軍は、SNS上で募集されたデモ隊への物資支援が市民運動とは思えないほど「極めて豪華」であることを重く見て、外国勢力による資金提供の可能性を指摘した。安全保障会議幹部は「国内の不満を外部勢力が買い取り、暴動へつなげる手法はハイブリッド戦の典型」と分析。SNSは今や、敵対国家が火種を送り込むための砲台と化している。
フィリピンでは成人の80%以上がTikTokを利用し、公的な情報インフラと化している。しかし、そのプラットフォームは中国資本であり、アルゴリズムの透明性は乏しい。中国は自国で外資SNSを遮断しつつ、民主国家へは表現の自由を盾に「一方的な情報侵略」を仕掛ける。この「非対称性」を突き、中国大使館はⅩ(旧ツイッター)などで高官への中傷を展開。上院では中国大使を「ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)」として追放すべきだとの強硬論も噴出した。
この動きは議会内部に深刻な分断をもたらした。安全保障の根幹では一致するフィリピン政界だが、対中外交の「手法」を巡る温度差が工作により拡大している。象徴的なのは、大使追放決議案への署名を9人の議員が拒否したことだ。ネット上では彼らを、中国(シナ)と上院議員(セナドール)を掛け合わせて「シナドール」と呼び、裏切り者として断罪する批判が渦巻いた。
この蔑称は、戦時中の対日協力者「マカピリ」になぞらえられ、最大級の屈辱として機能している。こうしたレッテル貼りは、外交論議を「愛国か裏切りか」の二択に封じ込める認知戦の強力な武器だ。本来、手法の差異にすぎない議論が、工作によって国家の存立を揺るがす分断へと変質させられているのだ。
こうした懸念を裏付けるように、上院で大使追放の議論が沸騰するさなか、ドゥテルテ前大統領の息子セバスチャン・ドゥテルテ・ダバオ市長を中国大使館の幹部らが訪問し、パイプの健在ぶりをアピールした。この事実は、外部勢力が国内の政治的亀裂に浸透し、中央政府をバイパスして内政の核心部にまで波及している実態を示している。
中国はこの分断を外交カードとして利用する。26年の東南アジア諸国連合(ASEAN)議長国のフィリピンにとって、南シナ海での「行動規範(COC)」妥結は重要課題だ。中国側は「交渉停止」をちらつかせ圧力をかける。フィリピンは、実効性の乏しいCOCを人質とする心理戦の渦中にある。
政府は外国からの工作活動を厳罰化する「外国干渉防止法(FICA)」の制定を模索するが、侵食は止まらない。自由を盾にした干渉に対し、日本がスパイ防止法の成立に向けて動きだしているように、フィリピンもまた、情報の防波堤を築く決断を下そうとしている。この「情報の戦地」で主権を守り抜けるかは、アジアの民主主義の防波堤が機能するかの分水嶺となるだろう。






