トップ国際アジア・オセアニア【インタビューfocus】抑留者の歌で平和訴え 日本とモンゴルの友好に 声楽家・田中利幸さんに聞く

【インタビューfocus】抑留者の歌で平和訴え 日本とモンゴルの友好に 声楽家・田中利幸さんに聞く

 たなか・としゆき 1956年生まれ。武蔵野音楽大学卒。86年より8年間、ミラノ公立音楽アカデミーと私立音楽アカデミーで声楽と舞台芸術を学ぶ。94年に帰国後もコンサート、講演活動などを継続している。「囚われの旅人」はユーチューブにて視聴可能。CDならびに無料楽譜の情報は「囚われの旅人CD」「囚われの旅人 楽譜」で検索できる。

 【囚われの旅人】(歌詞)
1、銀の曠野(こうや)を今日も行く 駱駝(らくだ)の群れはおおらかに
 何故か急がぬ旅姿 悲しかないか愛し子が
2、今日も暮れたか茜空 ホンノリ見ゆる街の灯に
 異郷の涙誘われて しみじみ思う故郷(さと)の家
3、桜か菊か青葉かと 帰り着く日の喜びを
 語った友はすでに亡く 遺髪も凍る牢(ろうや)の夜

 日本がポツダム宣言を受諾し終戦を迎えた1945年8月15日以降も、外地で犠牲になった日本人は多い。数ある一つがモンゴルの抑留者たちだ。彼らはソビエト連邦の捕虜となってシベリアに抑留されたのち、ウランバートルへ送還。夜は零下30度まで冷え込む過酷な環境下で、強制労働をさせられた日本人は約1万4000人と言われている。その中で抑留者たちが、望郷の思いを込め歌い継いだ曲「囚(とら)われの旅人」がある。この歌の復活に取り組んだ埼玉県在住の声楽家・田中利幸さん(69)に話を聞いた。(石井孝秀)

 ――「囚われの旅人」を歌うことになったきっかけは。

 モンゴル抑留で父親を失った鈴木富佐江さんに昨年8月、お会いする機会があり、「『囚われの旅人』を田中さんの声で後世に残すお手伝いをしてほしい」と直接頼まれたのがきっかけだった。鈴木さんは、天皇、皇后両陛下がモンゴルを御訪問し抑留者の慰霊碑に拝礼された際、遺族代表としてその場に立ち会われた方でもある。

 シベリア抑留と比べるとあまり知られていない出来事だが、調べてみると戦争が終わってから約1700人の方がモンゴルで亡くなったことを知った。亡くなった方々のためにもやらねばと思い、依頼を引き受けることにしたが、今でもこの歌を歌う時は自分の心を空っぽにして、無我の境地に立ち返らないと歌うことのできない特別な歌だと感じる。

 ――歌詞やメロディーはどうやって残されていたのか。

 抑留中、凍傷で両足を失いながらも日本に帰還を果たすことができた神戸市在住の友弘正雄さんがいらっしゃるのだが、その方が「囚われの旅人」の2番を歌っているテレビ番組を拝見することができた。それが唯一現存している音源だ。ご本人から1番~3番の歌詞を手書きで頂き、譜面化の作業を始めた。

 この歌を作曲したのは学徒動員の音大生で、高橋良一という人物だ。ウランバートルの病院で治療に当たっていた軍医の山田利衛によって書かれた歌詞を曲にしたものだ。モンゴルの抑留者によって5曲ほどの歌が作られていたようだが、歌詞もメロディーも判明しているのは、今のところ「囚われの旅人」のみ。しかも実際に口で歌っている人が残っているという点でも、極めて稀(まれ)な歌だと思う。

 ――歌詞にはどのような思いが込められていると感じるか。

 1番ではモンゴルの美しい風景が歌われている。ラクダの放牧のため、モンゴルの人々が長期間同じ所に留(とど)まっているのだが、故郷で待っている彼らの子供たちは寂しく思わないだろうか、という歌詞だ。モンゴル人への親しみと日本に残した家族への想(おも)いが感じられる。

 2番では一日の労働を終えて、寝床に帰り着いた際、ふっとモンゴルの町の灯(あか)りが目に入り、自分の故郷の夕日と重なって涙がこぼれてしまうという内容の歌詞だ。おそらく普段歌われていたのは2番だったのではないだろうか。士気を上げるため、全員で一緒に歌っていたのかもしれない。

 しかし、3番では日本へ帰ろうと誓い合った仲間たちが日々倒れ、その遺髪も凍っていく過酷な現実が歌われている。「囚われの旅人」をコンサートで歌う際、3番で終わると悲しみや不条理の思いが強く残ってしまう懸念がある。

 そこで遺族の鈴木富佐江さんにも了解を頂き、3番を歌った後で間奏を挟み、もう一度望郷の思いを込めた2番を歌って終わるという形になった。

 さらにピアノの伴奏譜をまとめた妻のアイデアで、最後の音は明るい長調の和音で終わるようにした。和音の三つの音には、抑留者たちがいつか日本へ戻るという希望、日本とモンゴルの友好を願う希望、その延長線上に世界の平和が近づいていく希望―この三つの希望を込めている。

建築で貢献した抑留者

第2次世界大戦後、日本人抑留者が建設したモンゴル国会議事堂と議事堂前広場で催されたイベントに集まる子供たち

 ――日本人の強制労働という過去がありながら、この歌を日本とモンゴルとの友好につなげることができるのはなぜか。

 労働のため日本人がモンゴルに連行された時、現地の人々は日本人のために毛布や食料をかき集め、寝床も準備したそうだ。そして、モンゴル人自身も労働者として、日本人と共に汗を流して働いた。当時のモンゴルは、首都ウランバートルですらしっかりとした首都機能を持っておらず、公共事業の担い手として、日本人の存在と手抜きのない労働は大変ありがたく思われていたのだろう。

 80年経(た)った今も、抑留者たちによって建設されたモンゴルの国会議事堂や図書館、オペラハウスなどは現役で使われている立派な建物で、最近は現地の観光ガイドも「この建物は日本人が造ってくれたものです」と感謝の思いを伝えている。私自身この歌を歌う中で、抑留者たちが「俺たちの命は散ったが、モンゴルに貢献し、日本や世界に貢献したんだ」と叫んでいるようなエネルギーを感じた。

 また、「戦争」や「平和」をテーマにした際、悲しみを強調し過ぎると、憤りや特定の国に対する憎悪で気持ちがいっぱいになってしまうこともあるだろう。

 だが、この「囚われの旅人」はただの悲しみの歌ではない。日本の美しい四季の情景を歌い、モンゴルの人々への温かい眼差しも感じさせる。誰かに負の感情をぶつけるというより、戦争そのものへの不条理と向き合いながら、「命の大切さ」や「人間のささやかな幸せ」を訴えるのが、この「囚われの旅人」が伝えてくれる世界だ。

 「囚われの旅人」のコンサートはこれまでに9回ほど開いたが、バヤルサイハン・モンゴル全権大使もこの曲で日本とモンゴルの共通理解と本質的な友好が民間レベルで推進されることを歓迎している。抑留者の背負った苦労に思いを馳(は)せつつ、音楽を通じた平和外交へとつなげていきたい。

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