
インドネシアから今世紀初頭、独立を果たした東ティモールが東南アジア諸国連合(ASEAN)の11番目の加盟国になった。これで東南アジア諸国全てが加盟国となる。長野県ほどの国土に、130万人余が暮らす小国ながら、ASEANは地域連合として国際的なバーゲニングパワーを強める新たなカードを手にした。(池永達夫)
東ティモールは1975年の独立宣言直後、インドネシア軍の侵攻を受け四半世紀以上の実効支配を受けながら2002年に独立を果たした。その歴史的経緯からASEANの盟主的立場でもあるインドネシアは、東ティモールのASEAN加盟には消極的な姿勢が続いたものの、近年では和解と協調関係が進展し積極的支持へと変わった。その意味で東ティモールのASEAN加盟は、最後のピースがはまったというだけでなく、過去の怨念や確執を乗り越え地域的和解を実現したシンボルとして大きな意味を持つ。
ASEANは1967年、インドネシアとシンガポール、タイ、フィリピン、マレーシアの5カ国で発足した。当時、ベトナム戦争の最中にあり共産主義勢力が台頭したベトナム、ラオス、カンボジアの3国に隣接するタイが、強い危機感を抱き、共同防衛を呼び掛けたことに始まる。5カ国は共産主義のドミノ現象を防ぐ必要性に駆られていた。
反共同盟として発足したASEANは、ベトナム戦争終結以後の70年代後半から地域経済の統合的発展を目指す経済協力機構に変わっていった。その象徴的スローガンが80年代末、タイのチャチャイ首相(当時)の「(インドシナを)戦場から市場へ」だった。
84年には産油国ブルネイが加盟。さらに、ASEANが敵視していたベトナムが86年、ドイモイ路線を打ち出して市場経済導入に舵(かじ)を切り、95年に加盟を果たした。かつての敵対国を包摂したASEANは続いて97年にラオスとミャンマーを加盟国として迎え、99年には10カ国目となるカンボジアの加盟を承認した。
経済協力機構へ移行していったASEANが、にらんでいたのは中国だった。改革開放路線を打ち出した中国に欧米の資本が集まることで中国はダイナミックな経済発展を遂げ、米国に次ぐ経済大国に豹変(ひょうへん)した。ASEANとすれば東南アジア地域に魅力的な投資市場を創出することで、そうした欧米諸国の対中投資の流れを妨げようとしたのだ。無論、97年7月2日に起きたアジア通貨危機の再発を防止する必要性に駆られ、東南アジア加盟国間で緊急時の外貨の手当てなど金融協力を迫られたという経緯もあった。
さらにASEANは、経済だけでなく安全保障や社会文化の分野でも協力と統合を進め、経済共同体、安全保障共同体、社会文化共同体の三つから成る「ASEAN共同体」へと昇華を果たそうとしている。
ただ中国はASEANにとって今や最大の貿易相手国になっているだけでなく、核兵器をはじめ強大な軍事力を持っている近隣国だ。米国の同盟国であるタイは、米軍との軍事演習「コブラゴールド」を毎年、行うと同時に中国とも軍事演習を行っている。他のASEAN諸国も基本姿勢は、米中ともに付き合う両天秤(てんびん)方式だ。一方だけにくみすることなく、双方に手を伸ばし利益を担保しようというものだ。
しかし、この両天秤外交がいつまで効力を持つのか疑問視されている。中国は広域経済圏構想「一帯一路」でカンボジア、ラオスに多大な投資をすることにより政治的影響力を強めている。ASEANの致命的な問題は、全会一致制だ。全加盟国が一致して賛同できない問題は棚上げし、一致できるところだけ前に進める。中国はこれを活用し、カンボジアやラオスを手駒として使い、自国に不利な問題に関しては“拒否権”を発動してきた。
とりわけ中国は近年、南太平洋地域への軍事的野心をむき出しにしつつある。大局的には米豪の間にくさびを打ち込むことで、西太平洋の覇権確立を急いでいるのだ。南太平洋の一角をなす東ティモールへの中国の進出ぶりが顕著となる中、同国を組み込んだASEANが地域連合として国際的なバーゲニングパワーを増すと同時に、どう中国と対峙(たいじ)するのか正念場を迎える。





