1990年代、ベトナムの山間部はタイムトリップの感覚があった。
山に向かっているのか、歴史をさかのぼっているのか分からない格別感だ。
ハノイから半日かけて標高1600㍍の高原都市サパに着くと、子供ははだしで走り回り黒モン族など少数民族が黒を基調とした民族衣装のまま背負子(しょいこ)を背に道を往来していた。
農家の庭で放し飼いにされているシャモの眼光の鋭さを、今でも覚えている。多分、何百年も前から変わらぬ風景がそこには残っていた。
今回、再びサパを訪ねた。山の上にその町はあるのだが、メイン道路が車で寿司(すし)詰め状態となり大渋滞を起こしていた。経済成長を続けているベトナムの景気は好調で、棚田が広がる高原都市には自然を楽しむベトナム人であふれている。
何よりカトリック教会のそばには、ベトナム一の高山ファンシーパン(3143㍍)の頂上までモノレールとロープウエーでつながっている映画に使われるような華麗なターミナル駅が鎮座している。
そのロープウエーに乗った。2度乗り換えないといけないのだが、その乗換駅には民族村と寺が建てられている。外国人観光客はスルーする人が多いが、ベトナム人の多くはちゃんと寺に参詣していく。頂上にも寺の本山とも見間違えるような荘厳な伽藍(がらん)がある。観光寺の趣がプンプンするのは致し方ないが、それでも共産国家のはずのベトナムで、お寺がここまで復権している姿には感慨を覚える。
少なくとも90年代の僧侶は早朝、托鉢(たくはつ)に出掛けても、多くの人々は乞食(こじき)を見るようなまなざしで見ていた。それでもベトナムで仏教が生き延びてきたのは、政治的迫害と社会的侮蔑に翻弄(ほんろう)されることなく僧侶が道を究め続け、人々の哀(かな)しみや魂の痛みに寄り添ってきたからだろう。
1975年に統一を果たしたベトナムや共産革命を成功させたラオスは、共産主義で国家を治めようとした。労働を価値創造の原点とする共産主義は、僧侶の托鉢を他人の労働で得た食糧の搾取だとして一時、僧侶にも畑仕事など労働を強制した時期もあったし、強制還俗もあった。潰(つぶ)された寺は数知れない。
ベトナム版改革開放路線のドイモイ(刷新)以後は宗教界に対し、往年の教条主義的措置を取ることはなくなっているものの、共産党政権は仏教界の上部組織としてベトナム仏教会を置き、ベトナムにあるすべての宗派と仏寺がこれに属することになっている。
この宗教統治法は中国方式で、中国では愛国宗教団体に所属しない宗教団体は、地方政府が宗教法人として認可しない。
なおベトナムの仏教伝来は2世紀と比較的早く、タイやミャンマー同様のテーラワーダ仏教(小乗仏教)だった。
他方、ベトナムが1000年近く中国の統治を受けた北属期(紀元前111年~後939年)、中国から大乗仏教が伝えられた。この大乗仏教がベトナムの主流仏教となっており、19世紀末以降の儒教の退潮に対し、大衆に根付いた仏教は時代の波に押し流されることはなかった。共産国家の当初こそ、僧侶や寺は迫害を受けはしたが信仰の火は途絶えることはなく、今なお広い底辺を持って信仰されている。(池永達夫)