9月に発足したタイのセター政権はこのほど、総額5000億バーツ(約2兆1000億円)のデジタル通貨による給付政策を打ち出した。だが、バラマキ政策だけでは一時的経済効果は望めても、激動の荒波を乗り越えて恒常的なタイ経済の浮揚力を得るのは難しい。(池永達夫)
デジタル通貨給付政策の対象となるのは、月収が7万バーツ未満で貯金額が50万バーツ未満の16歳以上の約5000万人。来年5月に支給し、半年間の期限付きで居住地域の対象店で食料や消費財を購入できる。借金の返済や公共料金の支払いなどには利用できない。
コロナ禍で低迷を余儀なくされたタイ経済のカンフル剤的対症療法は理解できなくもないし、デジタル通貨給付によって現実的な需要を増加させるため、金をもらっても銀行通帳の口座残高に反映されるだけの富裕層や高額所得層を外したことはタイ貢献党の政治基盤とも関係することで、分かりやすい。
だが、タイ貢献党にはバラマキ政策で道を誤った痛い過去がある。
タクシン元首相の妹のインラック政権時代、農村振興のため政府の補助金を使いコメの高値買い上げをしたことがある。結局、これが農村疲弊を招いた。農民は隣国ミャンマーなどから安いコメを輸入して、それを政府に高値で買い上げてもらってさや稼ぎに励んだことで、モラルハザードをもたらしただけでなく、いいコメを作り出す農村の活力をもそぎ落とした経緯があるからだ。金は使いようによっては、人々を不幸に招くだけでなく国力をも弱体化させる。
こうしたバラマキ政策だけでは、タイ貢献党が主導する政権の先細りは避け難い。
タイの経済浮揚力を図るために必要なのが、自由貿易協定(FTA)の拡充だ。
タイは対内直接投資額で2014年に、輸出額で18年にベトナムから追い抜かれた。その主要な理由は、自由貿易協定がカバーする国家の規模の違いとされる。
環太平洋連携協定(TPP)にも参画したベトナムが15件のFTAで53カ国・地域をカバーするのに対し、12年にTPP交渉への参加意向を表明したものの実現していないタイは13件で18カ国・地域にとどまっている。
タイがTPP交渉のテーブルから降りたのは、利権型政治家の復活があったからだ。今回も政権与党に返り咲いたタイ貢献党が、貧困層や農民の歓心を買うためバラマキ政策だけの一本足政党に堕するようだと、次の総選挙で手痛いしっぺ返しをくらうのは必至だ。
また、税制改革を叫ぶ知識人も多い。オフィスビルや高層アパート、大型商業施設の開発ラッシュがいまだ続くバンコク。土地のニーズは強いはずだが、一等地でも雑草が生えたままの空き地が少なくない。
理由は簡単だ。タイには日本の固定資産税にあたる土地保有税がない。資産家は高値を付けるまでじっと待つことが可能だ。こうした状況を変えるのは、政治家の仕事だ。
そうした慈善事業のような政治ではなく、国家の行くべき水平線を見つめてハンドルを握る本格的なステーツマンになれるかどうかがセター政権の正念場となる。
タイのセター首相は今月中旬、主要閣僚を引き連れて日本を訪問し経済の浮揚力を図るべく日本企業の投資を呼び掛ける。だがその時、発せられる主要政策がダイナミックに変革する国際産業社会の潮流を捉えることなく、単に従来のコピーでしかなかったら日本企業の心を捉えることは難しいだろう。
そうでなくても東南アジアは、「チャイナプラスワン」「タイプラスワン」で動き始めて久しい。