
毎年12月8日が近づくと、メディアは真珠湾攻撃ばかりを取り上げるが、南雲機動部隊がハワイに接近しつつあった頃、陸軍将兵を乗せた大輸送船団は南に向かっていた。石油をはじめとする天然資源確保を目的に、陸軍は宣戦布告と同時に東南アジアの列強植民地を制圧する南方作戦を立案、フィリピン(本間正晴中将指揮の第14軍)、タイ・ビルマ(飯田祥二郎中将指揮の第15軍)、蘭印(今村均中将指揮の第16軍)、そして英国が支配するマレー半島の攻略は、山下奉文(ともゆき)中将率いる第25軍が担当した。
昭和16年12月8日午前2時15分(日本時間)、第18師団先遣部隊の侘美支隊がマレー半島英領コタバルに敵前奇襲上陸した。真珠湾攻撃より1時間4分早い戦闘の開始であった。

コタバルのほか、タイ領のパタニとシンゴラに上陸した第25軍は、約千キロ南のシンガポールを目指し進撃した。当時東南アジアにおける英軍最大の拠点だったシンガポールは全島が難攻不落の要塞(ようさい)で、世界屈指のセレター軍港は周囲に巨砲が据えられていた。海上から攻め落とすことは至難と判断した日本軍は、機械化部隊を以(もっ)てマレー半島を縦断し、防備手薄な要塞の背後、北から攻撃する戦法を取った。
英軍に備える時を与えぬため、第25軍は敵中を突破し一気に半島を南下する必要があった。日本軍は英兵、インド兵などの抵抗を次々に退け、工兵部隊は英軍が撤退時に破壊した橋梁(きょうりょう)を全力で復旧、あるいは人の橋を造り兵士の前進を助けた。狭く移動困難な悪路を駆け抜けるため、自転車を利用した銀輪部隊も活躍した。島田豊作少佐率いる戦車隊は、戦史にも稀(まれ)な戦車による夜襲でスリム陣地を攻め落とした。
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クアラルンプールを占領した第25軍は2月9日午前零時、英軍の裏をかき防備手薄な北西方面からジョホール水道を渡河、熾烈(しれつ)な砲火にも怯(ひる)むことなく対岸のシンガポールに上陸。そして激戦の末にブキテマ高地を制圧、パシルパンジャン高地も落とし、シンガポール要塞を陥落させた。時に昭和17年2月15日、3万5千人の日本軍は8万5千人の兵力を擁する英軍を僅(わず)か1週間で降伏に追い込んだ。
電撃的なマレー半島攻略作戦を成し遂げた指揮官として、山下はその名を世界戦史に残した。シンガポール要塞の喪失は「英国史上最悪の大惨事にして最大の敗北」(チャーチル)となり、数世紀にわたる英国のアジア支配に終止符を打つ歴史的な転換点ともなったのである。
自ら「巨杉」と称する
山下奉文は明治18年11月8日、現在の高知県香美市白川で生まれた。父親は医師、母親は豪農の出だが、僻地(へきち)の診療に携わる父の収入は乏しく、子供時代の山下は山峡での極貧に近い生活だった。3歳から10歳まで父が開業する長岡郡大杉村(現大豊町)に移り住んだ。“大歩危(おおぼけ)渓谷の大杉”で有名な地域だ。
山下は体重が100キロ近くある力士並みの大男で、後年、恰幅(かっぷく)の良さから豪気剛腹な軍人との印象を世に与えた。郷里の大杉にちなみ、自らの号を「巨杉(きょさん)」と称した。大豊町には、今も彼を祭る巨杉神社が鎮座する。
広島幼年学校から中央幼年学校を経て陸軍士官学校、さらに陸軍大学へと進み、いずれも優秀な成績で終えた山下は、参謀本部や独墺瑞西の在外公館、陸軍省軍事課長など枢要なポストを経験し、将来を嘱望された。だがその後、第25軍司令官に就くまでの道のりは平坦なものではなかった。その理由は後で触れる。
「イエスかノーか」
2月15日午後7時、山下中将はブキテマのフォード自動車工場で、降伏を申し出た英軍最高司令官パーシバル中将と会見した。この時の山下の「イエスかノーか」の発言は有名だが、日露戦争における旅順郊外水師営での会見と対比され、敗将ステッセルに紳士的に接した乃木将軍に比べ、山下は傲慢(ごうまん)だったとの批判が出た。戦後、武士の精神で敵を思いやる明治の軍人と違い、昭和の軍人が居丈高で横柄だったことの証左にもされた。
もっとも、水師営の会見の時には既に露軍の降伏が決定して(停戦交渉は終えて)いたが、山下・パーシバル会見では未(いま)だ戦闘状態が続いていた。降伏せねば午後8時から夜襲をかけると山下はパーシバルに告げたが、日本軍の食糧・弾薬は底を尽き、将兵の疲労は極限に達していた。山下は焦りつつも弱みを見せず「全面降伏か否か、イエスかノーか、聞きたいのはその返答だけだ」と迫った。
一方パーシバルは、日本軍の要求事項について交渉を試みた後に降伏する腹積もりでいた。日本軍が無条件降伏を求めていなかったからだ。それ故パーシバルは交渉抜きに即答を求める山下に困惑したが、結局、夜襲を仄(ほの)めかし威圧する山下に屈し、降伏文書に署名したのが実相だ。
山下は気短な性格だった。気忙(きぜわ)しく机を叩(たた)く会見時の模様をニュース映像で見た家族は、「お父さんのいつもの癖が出ている」と失笑したという。後に彼は“傲慢な凱旋(がいせん)将軍”と映ったことを気に病み、「あれは拙い日本人通訳に(はっきりと当方の意思を伝えよと)命じたもので、パーシバルに向けた発言ではなかった」と弁明している。
だが当時の大衆は、破竹の勢いでシンガポールを攻め落とし、英軍をひれ伏せさせた勇猛剛直な将軍と山下を称(たた)え、「マレーの虎」と呼んだ。ハワイ攻撃の海の立役者が南雲なら、陸の山下はそれを遥(はる)かに超える国民的な英雄となった。だが半年も経ぬ間に、その英雄の姿が忽然(こつぜん)と現地から消えた。
(毎月1回掲載)
戦略史家 東山恭三