【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(11) 南雲愚将論再考(下) ミッドウェイ作戦自体に問題 海軍の威信守るため着せられた汚名

鎌倉の円覚寺にある南雲忠一の墓(左)、長男進(昭和19年12月戦死)との合葬墓

南雲忠一中将が批判されるのは、ミッドウェイ海戦で索敵を怠り米空母発見が遅れた上、攻撃隊発進に時間を要し戦機を見誤った点である。いずれも参謀の源田実、草鹿龍之介の具申に従った措置だが、ミッドウェイ島攻撃は米空母を誘い出すための手段で、空母撃滅こそ主目的であるにもかかわらず、南雲らが島の攻略に気を取られ過ぎたことが敗因と解釈されている。

確かに索敵の不徹底や攻撃隊発進の遅れは責任大だが、「島の攻略は作戦の主目的にあらず」は事実に反する。今日の常識に立てば、後の補給が続かぬミッドウェイ島の占領を真剣に考えるはずがないと思いがちだが、作戦命令では島の攻略が目的とされ、「米空母は出て来たならば叩(たた)け」であった。大本営海軍部の示した作戦要領には、機動部隊は「ミッドウェイ島ヲ攻撃制圧」し「反撃ノ為出現シ来ルコトアルベキ敵艦隊ヲ補足撃滅スル」(大海指第94号、昭和17年5月5日)とあり、空母撃滅が主、島攻略が従とはなっていない。本作戦に参加した多くの関係者も異口同音に、作戦の主目的は島攻略だったと回想する。

当時のミッドウェイ島

ミッドウェイで大敗を喫し、戦後あまり触れられないが、真珠湾の奇襲成功後、山本五十六はハワイ占領を真剣に考え出し、連合艦隊司令部も秋口のハワイ攻略作戦実施を視野に入れつつあった。精緻な作戦計画も伴わない思い付きで、常勝ゆえの驕(おご)りであったが、ミッドウェイ島攻略は、このハワイ占領構想の足掛かりとも位置付けられていたのだ。

また本作戦は機動部隊との調整を経ず、連合艦隊司令部が一方的に決定した。しかも陸兵上陸は早々と6月7日(空襲の2日後)と定められ、南雲はそれまでに島の攻略を終えねばならなかった。空襲だけでなく島を占領する意想外の大作戦で、機動部隊は兵員の休養や新任搭乗員の訓練など態勢立て直しのため作戦の延期を強く求めたが、連合艦隊司令部は聞く耳を持たなかった。ハワイ作戦当時とは様変わりの拙速ぶりが目立つ。

その後5月中旬になると、連合艦隊司令部は米空母のミッドウェイ海域進出は期待薄と考えるようになった。珊瑚(さんご)海海戦で空母ヨークタウンに3カ月を要する損傷を与え、稼働空母の乏しい米海軍は優勢な南雲機動部隊に挑んでは来るまいと判断したからだ。ヨークタウンが僅(わず)か2日で修理を終え出て来るとは想像外だった。米機動部隊がマーシャル方面で行動中との情報も入り、本作戦は島の占領で終わろうとの安易な推測に流されていった。

恫喝に屈した軍令部

作戦直前に山本五十六が愛人千代子に宛てた手紙でも「三週間ばかり全軍を指揮します。多分あまり面白いことはないと思ひますが」とある。乾坤一擲(けんこんいってき)の戦を前に最高指揮官が愛人に恋文を送っていた是非は置くとしても、この文面からは米空母撃破の大海戦に身構える心境は読み取れない。同様に連合艦隊司令部の緊張も緩んでいった。だが暗号が解読され、ミッドウェイ近海に米空母は展開していた。しかも南雲機動部隊の後方400カイリに位置する戦艦大和が米空母の出す電波を掴(つか)みながら、赤城にその情報を伝えなかったのである。

事後の補給もままならぬミッドウェイや、さらにはハワイの占領を企図する無謀さに加え、作戦の本旨や攻撃目標の優先順位も曖昧なまま「島も奪え、出てくれば空母も叩け」の過大な要求を実施部隊に強いるなど問題の多い本作戦を、部隊との十分な意思疎通を怠り、一方的に下令した連合艦隊司令部や山本の責任は重大だ。当初難色を示したが、真珠湾作戦の時と同様、容(い)れられぬなら職を辞すとの山本の恫喝(どうかつ)に屈した軍令部も同罪だ。

さらに付言すれば、真珠湾作戦とは打って変わり、本作戦の立案に山本は熱意を示さず、黒島亀人作戦参謀に任せきりだった。南雲批判に隠れ、こうした海軍上層部の責任問題はうやむやにされた。そして真珠湾の栄光は山本に、ミッドウェイの汚名は南雲に帰せしめられたのである。

まさに“悲劇の提督”

巷間(こうかん)、山本は南雲を嫌ったとされるが、確たる根拠はない。「南雲に対し一種の憎悪を抱いていた」と阿川弘之が記したあたりが出所らしいが、その解釈をきっぱり否定する松下慶三(海兵45期)など海軍部内の声もある。山本がそれほど南雲を嫌っていたなら、ミッドウェイ大敗の際、叱責更迭させても可笑(おか)しくないが、現職に留(とど)め雪辱の機会まで与えている。山本は艦隊派という派閥は嫌ったが、隣県出自の南雲個人を毛嫌いしたとは言い切れない。

南雲は航空作戦は門外漢だが、専門の幕僚を付けて補えばよい。山本とは対照的に慎重居士で投機を嫌う南雲を指揮官に立てれば、勝手な行動に出ず山本の意に沿い部隊を動かすものとの期待や信頼感があったのではないか。

日露戦争の際、海相山本権兵衛は自負心強く個人プレーが目立つ連合艦隊司令長官日高壮之丞(そうのじょう)を更迭、寡黙ながら命令に忠実な退職間際の東郷平八郎を新長官に抜擢(ばってき)した。大国ロシアとの戦では、部隊の独断専行が国を亡(ほろ)ぼす恐れがあった。それゆえ山本権兵衛は中央の指示通りに動く東郷を指揮官に据えたといわれる。大国アメリカとの戦を前に、同姓である五十六の心情も権兵衛と同じではなかったか。

だが南雲が真珠湾作戦に反対した経緯もあり、殊更(ことさら)に両者の不仲を言い立て、南雲の評価が下がれば逆に山本の評価は高まり、海軍中央の威信を保つこともできる。南雲愚将論は、幕僚らの保身だけでなく、山本五十六や日本海軍の名誉を守る上でも好都合だった。今年でミッドウェイ海戦から80年。部下、上司、さらには組織の身代わりの如(ごと)く愚将の汚名を一身に背負い続けた中将南雲忠一(死後大将)は、まさに“悲劇の提督”である。

(毎月1回掲載)

戦略史家 東山恭三

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