トップ国際アジア・オセアニア【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(6) 真珠湾攻撃と南雲忠一(上)勇猛さ慎重さを兼備、 機動部隊を率い大戦果を挙げる 南雲忠一、再攻撃せず「臆病な指揮官」の評

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(6) 真珠湾攻撃と南雲忠一(上)勇猛さ慎重さを兼備、 機動部隊を率い大戦果を挙げる 南雲忠一、再攻撃せず「臆病な指揮官」の評

炎上する戦艦ウェストバージニア(左)とテネシー

「ニイタカヤマノボレ1208」

中国からの日本軍全面撤兵などを求める「ハルノート」が示され、日米交渉は決裂。これを受け昭和16年12月2日午後5時30分、連合艦隊旗艦長門から、波浪凄(すさ)まじい北太平洋をハワイに向かう機動部隊に冒頭の開戦命令(X日を12月8日午前零時と定めらる)が打電された。

赤城、加賀など空母6隻を基幹とする機動部隊は予定通りハワイの北約400キロの地点に進出、12月7日午前6時(日本時間8日午前1時30分)、第1次攻撃隊183機が真珠湾を目指し発艦した。

攻撃隊は米軍の抵抗も受けず、真珠湾上空に達した。指揮官淵田美津雄中佐は午前7時49分「全軍突撃せよ(トトト)」を打電、3分後には「ワレ奇襲ニ成功セリ(トラトラトラ)を発信、岩国沖に在泊する戦艦長門でも直接受信された。午前8時55分には第2次攻撃隊も加わり、総計350機による約3時間の攻撃で戦艦撃沈4、大破1、中破3、また航空機231機を撃破し、米太平洋艦隊を壊滅させた。わが方の損傷は、航空機29機であった。

南雲忠一中将(死後大将)

機動部隊を率い、世界戦史に残る戦果を挙げたのは、第1航空艦隊司令長官南雲忠一(まぐもちゅういち)中将である。井上成美に省部互渉規程改定を迫った、あの南雲だ。南雲忠一は明治20年、山形県の米沢に生まれた。海兵36期で井上の1期上。駆逐艦などから敵艦を魚雷攻撃する水雷の専門家。

海軍大学を優秀な成績で終え、海軍主流の艦隊派に属すエリートだが、部隊勤務も豊富で、寒風吹きさす厳冬でも艦橋の窓を開け放ち夜襲訓練を行うなどその猛烈ぶりは有名だった。窓を開けさせたのは、窓ガラスが反射する光で敵艦に位置を悟られないための所作。

ブルドッグのような厳(いか)つい容貌も加わり猛将と呼ばれたが、部下思いの優しい一面も持ち合わせていた。真珠湾攻撃の際、赤城に無事帰還した搭乗員に駆け寄り抱き付いて喜んだ逸話が残されている。勇猛そうな外見に相違し、実像の南雲は慎重かつ神経質な性格で、昭和の時代に多い失敗を恐れる官僚的軍人の一人であった。

「投機性高い」と反対、強引に実行した山本五十六

空母を主力とする世界初の機動部隊を率い大戦果を挙げた南雲は、日本海海戦の東郷平八郎と並び称(たた)えられても可笑(おか)しくないはずだが、今日に至るまでその評価は気の毒なほどに低い。機動部隊の指揮官でありながら、真珠湾作戦に最も強く反対した将官であったことが影響していよう。

開戦前の検討会議で南雲は、真珠湾攻撃を主張する山本五十六連合艦隊司令長官を前に、あまりにも投機性が高い作戦だと強く反対し、海軍中央が計画していた資源獲得のための南方攻略作戦の実施を主張した。反対は軍令部も同様で、山本の命を受け真珠湾作戦を具体化した大西瀧治郎少将さえ、内心は反対だった。

だが山本の強引な主張が容(い)れられ、作戦の実施が決定する。昭和16年11月、岩国での打ち合わせの席上、「日米交渉妥結せば攻撃隊の発進後でも帰投せよ」の山本の指示に対し、部隊を預かる南雲は「出撃後に戻れというのは実際にも、また部隊士気からも無理」と異を唱えた。激怒した山本は「百年兵を養うは何のためか。命令に従えないと思う指揮官は出動を禁じる、即刻辞表を出せ」と命令の遵守(じゅんしゅ)を迫った。

長岡出身の山本、米沢の南雲と二人は隣県の出自ながら、条約派の山本は、海兵同期の盟友で条約派のエースだった堀悌吉中将を予備役に追い込んだ艦隊派グループを嫌っていた。南雲は水上艦重視で航空機や空母の運用は全くの門外漢。海軍航空の育成に心血を注いだ山本とは、戦略思想でも波長が合わなかった。

その南雲を年次序列という平時の発想で機動部隊の指揮官に据えたとして、海軍の人事が批判されるが、投機的な作戦を嫌い、また航空機を重視しない南雲の立場こそ当時の海軍主流の総意であり、彼一人が守旧派というわけではなかった。また作戦の意義や発案の真意を直接南雲に説いて聞かせ、納得させる努力を山本は厭(いと)った。その弊が、後に取り返しのつかぬ失態へと連なる。

空襲作戦の細部には口を出さず、部下を信じて任せる

攻撃開始直後のフォード島。日本軍機の雷撃で水柱が上がる

南雲の指揮ぶりはどうであったか。択捉島単冠(ヒトカップ)湾に集結した機動部隊は11月26日午前6時、ハワイに向け出港した。この時、旗艦赤城の抜錨(ばつびょう)作業が手間取り、艦長長谷川大佐は南雲から大目玉を食らう。北方航路を移動中も、操艦や艦隊の航行を心配する南雲は不安げな面持ちで細々(こまごま)と指示を出し、「主将は過度の心配を現はさざること肝要なれ。口数多く一喜一憂口走るは主将の慎むべき事なり」(「長谷川喜一日誌」)と長谷川を閉口させている。

その一方、肝心のハワイ空襲作戦について南雲はほとんど口を挟まず、航空畑の草鹿龍之介参謀長や源田実航空参謀に任せ切りだった。作戦は航空の専門家に判断を委ね、艦隊をハワイまで連れて行き、作戦終了後、全艦を無事日本に戻すことが自分の使命と受け止めていたのだ。源田や淵田らは、最高指揮官から指示が出ないのは不満であり不安でもあったと戦後述懐しているが、この姿勢が指導力を発揮しない指揮官と南雲が批判される一因となった。

もっとも日本軍は米軍と異なり、将官ともなれば作戦は基本的に幕僚任せで、細部に口を出すことは稀(まれ)だった。南雲に限った話ではない。黙して部下を信じ任せることが美徳とされ、腹の座った大将と評価された。聖将論である。最高司令官自ら作戦を立てその実施を迫る山本の方が異色だった。

それ故に危険を冒し真珠湾攻撃を大勝利に導いた手柄や賛辞は全て山本の一身に集中し、作戦に否定的だった南雲は割を食ってしまう。さらに真珠湾を再攻撃せず戦果拡大の機を逃した臆病な指揮官と、南雲は酷評される。

(毎月1回掲載)

戦略史家 東山恭三

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