トップ国際アジア・オセアニア【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(4) 孤高の海軍大将 井上成美(上) 三国同盟反対、上層部を公然批判し第4艦隊長官に“左遷” 艦隊決戦を否定、航空戦力の強化を主張

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(4) 孤高の海軍大将 井上成美(上) 三国同盟反対、上層部を公然批判し第4艦隊長官に“左遷” 艦隊決戦を否定、航空戦力の強化を主張

海軍中将時代の井上成美

トラック島の春島には、日本が委任統治していた南洋群島を防備区域とする第4艦隊司令部が置かれていた。日米開戦直前の昭和16年8月、その司令長官に井上成美(しげよし)少将が親補(しんぽ)された。井上は海軍省軍務局長として、米内光政海軍大臣、山本五十六海軍次官とともに日独伊三国同盟締結や日米開戦に強く反対した。

「3人のうち三国同盟に最も激しく抵抗したのは井上だった」と山本は述懐している。作家阿川弘之が米内、山本とともに海軍良識派三羽烏(がらす)として彼を描き、戦後その名が広く知られるようになった。

軍務局長のあと艦隊勤務を経て航空本部長に就くが、この時井上は戦艦建造を重視する海軍の軍備計画案を批判、昭和16年1月にその対案として「新軍備計画論」を及川海軍大臣に提出、直談判でその採用を迫った。戦艦の時代は過ぎ去り艦隊と艦隊の決戦は起きないとし、戦艦ではなく航空戦力の強化、特に基地航空部隊の増強が対米戦に必要となること、また海上交通確保の戦力整備や潜水艦の増強などを求める内容だった。

夏島の第四艦隊司令部跡(筆者撮影)

その後の太平洋戦争の経過が井上の指摘の正しさを証明しているが、彼の計画論は倉庫に仕舞われ日の目を見ることはなかった。逆に、軍の計画を公然と批判し、職を賭しても自案の採用を迫る強引さや南部仏印進駐決定を面詰する姿勢が反感を買い、体よく中央から遠ざけられての第4艦隊長官就任だった。第4艦隊は担任区域こそ広いが、装備は老朽艦揃(ぞろ)いの二級艦隊。井上も左遷人事と受け止めたが、とはいえ兵学校同期の先陣を切る艦隊司令長官就任だった。

論理追求し妥協せず、軍備増大や軍部の台頭突出を危険視

井上成美は明治22年、仙台に生まれた。長兄は京都帝大に進むなど秀才揃いの一族で、成美も成績優秀だったが、家が貧しく上級学校への進学が許されず、官費で学べる海軍兵学校を志願、一番の成績で合格している。得意科目は数学で、トラック島の司令長官室でも数学の問題集を解いていたほどの数学好き。

成美の名は『論語』の「君子は人の美を成す」から父親が名付けたが、井上自身は漢文が嫌いだった。漢文は「~せよ」と命じるだけで、なぜそうすべきかの理論がないことが、その理由であった。数学好きの性格ゆえか全てについて論理を追求し、理に叶(かな)わぬことは頑として認めず、妥協しない剛毅(ごうき)な性格だった。

井上は、軍縮条約の必要性を説く条約派に属し、軍備の増大や軍部の台頭突出を危険視した。軍事には作戦戦術を扱う軍令と、人事や予算、兵力整備を司(つかさど)る軍政があり、前者が軍令部、後者が海軍省の所掌とされたが、実際には線引きの難しい業務も多い。

昭和8年、軍令部は「省部互渉規程」を改正し、海軍省を抑え軍令部の権限拡大を図ろうとした。全ての業務が作戦一本やりで進めるのは可笑(おか)しいと海軍省軍務局第1課長の井上は、この改正に強く反対する。宮様である伏見宮軍令部長の威光を振りかざし軍令部が強硬に改正を迫り、海軍大臣や部長も皆折れたが、井上唯一人最後まで改正に反対し続けた。

軍令部第2課長の南雲忠一大佐が幾度も井上の部屋に押し掛け「お前なんか殺してやる」と恫喝(どうかつ)したが、「死ぬのが怖くてこの職に就けるか」と一歩も引かず、死を覚悟して机に忍ばせていた遺書を示し、南雲をたじろがせている。結局、井上がその職を離れ後任者が決済することで、軍令部の権限が拡大された。井上は横須賀鎮守府付に左遷となる。

現在の目から見て、井上のいずれの主張も全て正鵠(せいこく)を得ており、先を見通した情勢分析や大局観、それに視野の広さは、武人よりもむしろ文官的な素養の高さを示すものと言える。「ラディカル」が頭に付くほどの「リベラリストだった」と戦後、井上は自らを評している。しかし海軍の本流に身を置く者にすれば、「何でも反対の男」と映る井上を快く思うはずがない。破壊主義者などと罵(ののし)られ、結束の固い海兵同期からも疎ましく思われた。狷介(けんかい)にして気骨稜々(りょうりょう)、また黙して多くを語らぬ性格から、陽気な山本五十六とは対照的に、近寄り難き修行僧の如(ごと)き将官であった。やがて日米戦の幕が切られ、理論ではなく実戦、井上の指揮官としての力量が問われることになった。

ウェーキ島攻略で日本海軍初の黒星、作戦指揮に批判噴出

第4艦隊旗艦鹿島

井上の第4艦隊は開戦劈頭(へきとう)、グアムやマキン、タラワを占領したが、続くウェーキ島の攻略は、米軍守備部隊の反撃を被り失敗、開戦以来、日本海軍初の黒星となった。真珠湾攻撃を成功させ帰投中だったかつての論敵、南雲が指揮する機動部隊の助太刀を得て12月下旬、ようやくウェーキ攻略は成ったが、翌年の珊瑚(さんご)海海戦でも井上の指揮には批判が噴出した。

開戦から100日、日本軍の進撃は目覚ましく、昭和17年1月マニラ、2月にシンガポール、3月はラングーンとジャワをそれぞれ占領し、南方資源地帯の確保に成功した。続く第2段作戦について、積極攻勢を説く海軍と持久により長期不敗体制を目指す陸軍が対立したが、妥協の末、米豪を遮断しオーストラリアを介した米軍の対日反攻を阻止するため、ポートモレスビー攻略(MO作戦)とニューカレドニア、フィジー、サモア攻略(FS作戦)が決定した。

このうちMO作戦とは、陸軍がニューギニア島東南のポートモレスビーを攻略し、そこから豪州に攻撃を仕掛けるものであった。連合艦隊司令部は第4艦隊に空母増援部隊(第5航空戦隊)を付加し、ポートモレスビー上陸部隊の支援と、その阻止を目的に進出して来るであろう米機動部隊の撃滅を井上に命じたのである。

(毎月1回掲載)

戦略史家 東山恭三

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