米軍来襲も支援艦船置き去りに、今も眠る乗組員の遺骨

ミッドウェー海戦(昭和17年6月)を境に、戦局は悪化の一途を辿(たど)った。原爆開発を進めるマンハッタン計画の軍事政策委員会は翌年5月、原爆投下の候補地にトラック島を挙げた。目標となる艦船が多く、万一爆弾が不発の際も水深が深いため回収困難で機密漏洩(ろうえい)の危険が小さいからといわれるが、選定理由は果たしてそれだけだったろうか。

翌月アッツ島守備隊が玉砕。11月にはタラワ、マキンが、明けて19年2月、クエゼリン守備隊も全滅した。太平洋を西進する米軍は、真珠湾攻撃の恨みを晴らすかのようにトラックに攻撃の矛先を向けた。マーシャル諸島のマジュロを出撃したスプルーアンス中将指揮の第58任務部隊は昭和19年2月17、18の両日、艦載機589機を以(もっ)てトラックを空襲する(ヘイルストーン作戦)。
2日間の攻撃で航空機約270機が破壊され、輸送船31隻を含む40隻余の艦船も沈められトラックの基地機能は完全に喪失した。料亭小松は店が壊滅、6人が爆死した。ただ沈船の多くは徴用された商船や特務艦等の支援艦船で、戦闘艦は駆逐艦文月など数隻だけだった。事前に米軍来襲の動きを察知し、武蔵など連合艦隊主力艦は2月10日、本土やパラオへ避退していたからだ。船足の遅い輸送船などは足手まといになるからか、あるいは重油がなかったのか。「米軍迫る」の情報も伝えられず、置き去りにされた。

トラック、今のチュークで最近、船とともに海中に残されたままの戦没者の遺骨が外国人ダイバーへの見世物に供される実態が問題となった。金と引き換えに現地ガイドが遺骨の場所を教えるのだ。先の大戦で軍艦、商船など海外で沈められた船は総計約2300隻、約30万柱の海没遺骨が未(いま)だ収集されず、その数は戦没者遺骨の3割を占める。これまで日本政府は、船乗りには「海が墓所」との論理で海没遺骨の収集に否定的だった。だが平成28年に議員立法で「戦没者遺骨収集推進法」が成立、戦没者の遺骨収集が「国の責務」と明確に位置付けられた。ご遺族の心情に鑑み、遺骨の尊厳が二度と失われることなきよう国は遺骨収集事業に力を注ぐべきである。
この大空襲のなか、座礁しながらも奇跡的に環礁から脱出に成功した特務艦があった。戦後、衣替えされ日本初の南極観測船となった「宗谷」である。敗戦で打ち沈む日本人に誇りを呼び戻した船だ。戦後日本の食生活を担った沈船もある。水深40メートルの海底に沈む油槽船「第三図南丸」は昭和26年に引き揚げられ、捕鯨船として昭和46年まで活躍、戦後の食糧不足解消に貢献している。
補給路を断たれた島に新たな試練、壮絶な飢餓との闘い
大空襲を受けたトラックだが、先を急ぐ米軍が蛙(かえる)跳び作戦を採ったため、玉砕は避けられた。そのためか戦後、この島が戦記で語られることは少ない。だが、補給路を断たれた島には新たな試練が襲った。飢餓である。東京帝大を卒業した一人の青年が、海軍主計中尉として夏島に着任する。壊滅的被害を蒙(こうむ)った施設の修復を命じられ、200人の軍属を指揮することになった。飛行場など軍事施設の多いこの島には、その維持、補修のため土木作業員など多数の軍属が送り込まれていた。暗く沈んだ彼らの気持ちを和らげようと、主計中尉は句会を催した。戦後、詩人として名を馳(は)せた金子兜太(とうた)である。
金子はその後、サツマイモ生産のために秋島へ移ったが、食糧不足が深刻化し、俳句作りではなくなった。サイパン陥落後、トラックは完全に孤立無援となり、島に残された軍人、軍属らは終戦まで壮絶な飢餓との闘いを強いられ、食料の奪い合いや殺傷事件も多発した。芋栽培を始めても虫に食われて全滅、僅(わず)かな食料も軍人が優先され、軍属には与えられなかった。栄養失調で5千人が餓死したが、ほとんどが下級兵士や軍属だった。軍属の中には受刑者もいた。労働力の不足を補うため、土木作業要員として横浜刑務所から数千人の受刑者がテニアンやウオッゼ、そしてトラックにも送り込まれた。青い服を着せられ、現地では“青隊”と呼ばれた。彼らも米軍の度重なる空襲と食糧不足、それに風土病に次々と倒れていった。船と運命をともにした商船員、餓死した軍属、受刑者、芸妓。「死の現場」と金子が詠んだトラックは、軍人だけの「悲劇の島」ではなかった。
夢に現れた将兵・軍属、トラックは今もまだ戦場
初めてトラックを訪れた際、2日続けて夢を見た。夜ベッドに入ると、旅の疲れか、すぐにうとうとし始めた。バーで飲んでいた白人ダイバーらが部屋に戻ってきたのか、廊下が騒がしい。しかしその足音がなぜか私の部屋の前で止まった。不信に思い耳を欹(そばだ)てていると、突然私の前に防暑服を着た海軍の将校が立ち、来島の目的を尋ねられた。「戦史研究のためです」と答えると興味深そうな顔をし、「俺は四国の武家の出だ」と自らの身上を語りだした。次の夜、私と旅に同行している妻、息子の前に多くの将兵・軍属が列をなしている。「これを内地の家族に渡してもらえないか。ここで持っていても使うこともないから」と、一人一人私たちに何かを預けて立ち去る。古めかしい通帳と印鑑だ。黙々と受け取っているうちに、目が覚めた。この島は今もまだ、戦場なのだ。
(毎月1回掲載)
戦略史家 東山恭三