.jpg)
トラック島が日本海軍最大の前進拠点となったのは、日本海軍の対米戦構想と深く関わっていた。日露戦争の勝利から程ない明治40年4月、元帥・山縣有朋主導の下に「帝国国防方針」が策定され、わが国の仮想敵国の第一には陸軍が想定するロシアが、次いで海軍が想定するアメリカが挙げられた。
帝国国防方針はその後、大正7年、同12年、昭和11年と3度改訂されるが、海軍の主たる仮想敵国は終始アメリカであった。大正12年の改定からロシア(ソ連)に代わりアメリカが、帝国日本の第一の仮想敵国に据えられた。
その間、海軍の対米戦構想は守勢を基本とし、日本に攻め寄せて来る米海軍の大艦隊を日本近海に待ち受け、艦隊決戦によって一挙にこれを屠(ほふ)らんとするものであった。この戦略は日米開戦の直前まで変わらなかった。要するに明治38年5月27日の日本海海戦の再現を期すものであった。ただ、日米の艦隊が雌雄を決する海域は、当初は小笠原列島以西が想定されたが、その後徐々に東に移り、マリアナ、カロリンを経て最終的にはマーシャル諸島西方(東経160度線)とされた。
圧倒的な米海軍を打ち漏らせば日本本土が直接危険に晒(さら)される。獲得した南洋群島を活(い)かし決戦海域を本土から遠い東に移すとともに、迫り来る米艦隊に潜水艦や航空機による先制奇襲攻撃を繰り返し、その戦力を減殺させた上で、艦隊決戦で撃滅を図るという考えである。この作戦構想は、漸減(ざんげん)邀撃(ようげき)戦略と呼ばれた。
所要兵力については、太平洋を越えて日本に攻め込もうとする攻勢艦隊の米海軍は、守勢に立つ日本海軍よりも大きな兵力が必要となる。逆に日本海軍は米海軍の最低7割の戦力を持てば、練度と士気の高さで不足分を補い艦隊決戦で勝利することが可能で、またそれは日米戦争を抑止する力ともなる。海軍大学校教官佐藤鉄太郎のこの戦略思想が、兵力整備の基本方針となる。それゆえ日本海軍は終始対米7割の確保に拘(こだわ)り、部隊では月月火水木金金の猛訓練を重ねたのである。
.jpg)
もっとも、仮想敵とはいえ米海軍は当初日本海軍にとって、戦力の増強を進めるための目標であった。だが、時代が下がるにつれ日米関係は悪化し、対米戦が真剣に議論されるようになる。そして米海軍を中部太平洋で叩(たた)く潜水艦や航空機の根拠地として、ラグーンの中で空母艦載機の発着艦訓練もできるほど広大な環礁を持ち、敵艦の侵入も防げるトラックが評価されたのである。
委任統治領の武装化は禁じられていたが、日本は国際連盟から脱退(昭和8年)、また太平洋地域の軍事施設の現状凍結を定めたワシントン軍縮条約も失効(昭和11年)し、トラック環礁の各島には飛行場や飛行艇基地、砲台などが設営され、艦隊への燃料補給のため夏島に3万トンの重油タンクも整備されるなど基地化が進んだ。
消息を絶った飛行家イアハート、米軍支援の冒険飛行
この動きに警戒感を強めたアメリカは、日本の動きを探るべく情報収集活動を活発化させたが、外国船の寄港を拒否するなど日本は秘密保持のため南洋群島へのアクセスを厳しく規制した。そうした中、昭和12年7月、アメリカの女性飛行家アメリア・イアハートが東回りの単独世界一周飛行に飛び立った。盧溝橋事件が勃発する数日前のことである。
しかしイアハートはニューギニアのラエから米領ホーランド島に向け南太平洋を飛行中、操縦するロッキード・エレクトラ機が消息を絶ち、不帰の人となった。彼女のこの冒険飛行、表向きは個人の活動とされたが、実際には米政府や米軍が資金や技術等全面支援しており、ローズベルト大統領も関わっていた。そのため南太平洋飛行の真の目的は、トラックなど南洋群島における日本軍武装化の実態を探るためだったとの有力な説がある。
アメリカでは、トラック諸島偵察中にエレクトラ機は日本軍に撃墜されたとか、イアハートは捕虜にされたとの噂(うわさ)も飛び交った。しかし、イアハート機偵察説はかなりの信憑(しんぴょう)性を持つが、日本軍による撃墜や捕虜説は荒唐無稽だ。イアハートが消息を絶った時、日本海軍はその捜索に協力を惜しまなかった。日本に疑念の目が向けられて日米関係が悪化する事態を恐れ、海軍首脳が捜索活動の指揮を執ったからだ。首脳とは、時の海軍次官、山本五十六である。
最盛期は艦船100隻に将兵6万、料亭や保養施設も設置
.jpg)
しかし山本の努力も効なく、日本は昭和16年12月対米戦に突入し、トラックはさらに活気づいた。翌年8月には広島から連合艦隊司令部が進出し、19年2月に引き揚げるまでこの島は連合艦隊の前進拠点となり、旗下部隊も相次ぎ来島した。最盛期には100隻近い艦船が停泊、6万人の将兵・軍属らが居住し、海軍最大の前進基地トラックは日本の“真珠湾”とも呼ばれた。ただ大型艦が脱着できる埠頭(ふとう)やドックなど造修施設の整備は間に合わなかった。
他方、部隊将兵の進出に併せ海軍の料亭や保養施設が設けられた。海軍将校が集う横須賀の料亭小松は開戦翌年、トラックに支店(トラックパイン)を開店、最盛期には50~60人の芸妓(げいぎ)を揃(そろ)え盛況の観があった。最前線にありながら、本土にも似た日常生活の息吹を感じさせるトラックだったが、昭和19年の大空襲で様相は一変、この島は“飢餓の島”と化す。
(毎月1回掲載)
戦略史家 東山恭三