
東アフリカのルワンダで1994年、犠牲者の数100万人とも言われる大量虐殺(ジェノサイド)が発生してから4月で30年。3カ月の間に国民の約10%が殺害されるという大惨事につながった民族対立を乗り越え、「アフリカの優等生」と呼ばれるまでに復興している。(長野康彦)
虐殺の直接の引き金となったのは、1994年4月6日、ルワンダのハビャリマナ大統領と隣国ブルンジのンタリャミラ大統領の搭乗機が、ルワンダのキガリ国際空港へ着陸寸前、何者かによって撃墜され、両大統領が死亡したことによる。
当時ルワンダでは民族的に多数派のフツ系が政権を握っていたが、少数派のツチ系とは武力衝突を含む緊張状態にあった。死亡した両大統領が共にフツ系だったことから、フツ系過激派はツチ系反政府組織・ルワンダ愛国戦線(RPF)が撃墜したと非難。RPF側はツチ系国民攻撃の口実をつくるためにフツ系が行ったと主張した。
飛行機の墜落から30分もたたないうちに、フツ民兵がツチ系住民特定のため道路を封鎖。ラジオやテレビ局は、撃墜はRPFの仕業だとするプロパガンダ放送を開始した。その日のうちに大統領警備隊のメンバーが首都キガリの空港近くでツチ系民間人を殺害、翌日にはアガート・ウィリンジイマナ首相と、警護の国連平和維持軍兵士10人がルワンダ政府兵士に襲撃され殺害された。
当初、反政府的とされる人物のリストが民兵らに配られ、それらの人物と家族を中心に虐殺が行われたが、またたくまに一般市民にも広がり、ツチ系なら老若男女、無差別に虐殺の対象となった。虐殺の多くは隣人や同じ地域の住民によるものであり、マチェーテと呼ばれる刃物が使用された。また穏健派フツ系国民も殺害された。
虐殺が容赦なく速やかに全土に広がった要因として、以前からツチ系国民に対する政府やメディアの扇動的プロパガンダが行われていたことが指摘されている。
内容としては、「ツチは外国人であり、ここに住む権利がない」「ツチはフツよりも高い地位と富を享受し続けていて、フツの貧困はツチの責任」「ツチはフツにとって危険な存在なので、フツは自身を守る権利と義務を持つ」などだ。
米ニューヨーク州を拠点とする人権団体「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」の調査研究では、特にフツ系国民に対してツチ系国民への敵愾心(てきがいしん)を植え付け、「やらなければやられる」という恐怖心をあおったことがこれほどの大虐殺につながったとしている。
虐殺は隣国のウガンダに逃れていたツチ系難民で結成されたRPFが全土を制圧する7月4日まで続いた。
しかしながら、フツとツチの対立はもともとあったものではない。ルワンダの民族別人口構成を見ると、1994年の時点でフツ85%、ツチ14%、トゥワ1%で、歴史的にはフツもツチも同じ言語を話し、違いは農耕民族か遊牧民族かということでしかなく、平穏に共存していた。
元来王政だったルワンダは、19~20世紀にかけて欧州列強のアフリカ分割でドイツ、続いてベルギーの植民地となる。ベルギーは植民地支配の道具として少数派のツチを支配層に据えた。
そんな中、国王がベルギー人医師からワクチン接種を受け死亡したことでベルギーとツチの関係が悪化。ベルギーはクーデターで軍政を敷き、王政を廃して共和制を樹立、フツ系を大統領に据え、フツ系支援に政策を転換した。
独立後、政情が安定した時期もあったが1990年にはフツとツチの対立が先鋭化。ルワンダ紛争と呼ばれる内戦に陥り、93年の大量虐殺につながった。
悲劇を乗り越え、現在ルワンダでは国民から圧倒的支持を得ているポール・カガメ大統領(ツチ系)の下、「アフリカの優等生」として順調な復興と発展を遂げている。