
東京高等裁判所は3月4日、世界平和統一家庭連合(家庭連合、旧統一教会)に対する解散命令を維持、家庭連合側は、最高裁に特別抗告を行った。この問題を法治主義の観点から問い直すと、半世紀前に南米で問われた一つの事件が浮かび上がる。アルゼンチンの軍事政権下でエホバの証人に対して行われた宗教弾圧と、それを審理した米州人権委員会(IACHR)からの勧告だ。(サンパウロ綾村 悟)
1976年8月、アルゼンチンの軍事政権は政令第1867号により、エホバの証人の全国的な活動を全面禁止し、全ての集会所を強制的に閉鎖した。名目は「公序良俗と国家安全保障への脅威」。1000人を超える子供が学校から追放され、信者は逮捕・拘禁された。
この事件は、救済措置を求める信徒たちによりIACHRに持ち込まれ、78年の米州機構総会決議を経てアルゼンチン政府に政令廃止を勧告した。IACHRがこの勧告で根拠としたのは、「宗教団体の法的地位は信教の自由の制度的保障として不可欠」という原則だ。
米州機構が信教の自由と宗教団体の法的地位に厳格な基準を定めるのには明確な理由がある。南米諸国が経験した軍政と人権侵害への深い反省が「国家に人権や団体権に対する過度な裁量を与えてはならない」という法理(法律の根底を流れる基本原則)を求めた。
勧告後も弾圧は続き、83年の民主化後にエホバの証人への活動禁止令が廃止された。
近年では、ニカラグア政府が2024年、財務報告不備を理由に60以上の教会の法的地位を剥奪したが、IACHRは「信教の自由への攻撃」として非難している。
これらの判断は、近年の日本の司法が採用してきた論理と相いれないものだ。
日本の司法はオウム真理教解散命令の最高裁決定(1996年)以来、「解散命令は信教の自由を直接制約するものではない」という前提を維持してきた。家庭連合の審理においても、法人格の剥奪は信教の自由の侵害に当たらないという前提だ。
しかしIACHRの法理では、宗教団体の法人格や団体権は信教の自由と切り離せない。その剥奪は信教の自由の問題として審査される。
宗教は礼拝や布教、教育など信徒が集まって初めて実践できる。「個人の信教の自由を保障するには、団体の存在が不可欠」という考え方だ。
IACHRは、団体の存在権は個人の信教の自由の延長として人権に内在すると判断している。宗教団体に対する国家の登録や認可は、団体の存在権の「確認」にすぎない。
さらに、米州人権条約下では、宗教法人の解散は「損害賠償・活動制限・監督強化などの行政指導と処分では不十分なのか」という比例原則からの検証が不可欠となる。
米州人権条約下においても、オウム真理教のように組織的テロや大量殺害を行った団体に対しては、生命権という対抗利益の重さが解散を正当化し得る。しかし民法上の不法行為を根拠とする家庭連合の事案では、米州基準の下では「なぜ解散以外の手段では不十分なのか」が問われかねない。
加えて、家庭連合の事案は、非訟事件として全面非公開で進められた。米州人権条約第8条は公正な手続きの保障を定めており、宗教法人の存続という根本的な権利が非公開の手続きで決定されることは、米州基準では疑義が生じる。
「信教の自由と宗教団体の法的地位」「比例原則」「非訟事件」への問いは、国際社会への説明責任として残る。アルゼンチンの教訓が示すのは、国家が宗教団体の法的地位を剥奪する論理は、その正当性とは別に法治主義の試金石になるということだ。
特別抗告が却下された場合、日本の家庭連合には米州人権裁判所や欧州人権裁判所、アフリカ人権裁判所のように法的拘束力を持つ地域的人権裁判所による救済措置はない。先進民主主義国家の日本の法理と判例が、アジア全域の信教の自由を巡る前例となることを忘れてはならない。






