専制がもたらした自由の圧殺 ゲルツェンの「ロシアの革命思想」を読む

モスクワ・クレムリンにあるウスペンスキー聖堂

共産主義は裏返された露の専制

タタールの軛 公共の精神消える

モスクワのプーシキン駅近くにあるロシア国立ゴーリキー文学大学は、1933年の創設で、古い貴族の屋敷が校舎として使われている。そこは作家アレクサンドル・ゲルツェン(1812~70年)の生家で、中庭に彼の銅像が立っている。

ロシア文学者の奈倉有里さんが『夕暮れに夜明けの歌を』(イースト・プレス)で紹介している。彼女はこの大学の卒業生だ。この本の中に「ゲルツェンの鐘が鳴る」という章があり、ゲルツェンの誕生日に開かれた記念会の様子が紹介されている。

それによるとゲルツェンはソ連時代に高く評価されたが、ソ連崩壊後は批判にさらされているという。

これを読んでこの作家のことが気になっていたところ、今年3月、ゲルツェンの『ロシアの革命思想』(初出1853年、長縄光男訳、岩波文庫)が復刊された。歴史の名著というべき作品で、ロシア史の謎の数々が解明されていたことに驚いた。

タタールの軛(くびき)とは何だったのか。ロシア正教の果たした役割は何だったのか。専制的支配はどのように形成されたのか。その呪縛からロシアが解放されることはないのか。ゲルツェンはこれらの問いに明確な答えを出していた。

ところで、ソ連時代に彼が評価された理由を長縄氏は解説している。それはレーニンの解釈に基づくもので、ゲルツェンの思想がロシアの専制体制と西欧のブルジョア社会を共に批判し、社会主義を目指していたという点でマルクス主義と方向性を共にしていたからだという。

ロシア革命の前史という位置付けだが、長縄氏は「ゲルツェンの思想はそうした革命とは、いささかなりともつながってはいない」と否定する。ゲルツェン自身も「共産主義とは裏返しにされたロシアの専制」と述べ、共産主義世界を実現させてはならないと訴えていた。

例えばモンゴルにロシアが支配されたタタールの軛だが、ロシア史の土肥恒之氏は『興亡の世界史ロシア・ロマノフ王朝の大地』(講談社)で「歴史的評価はいまだに定着していない」と述べ、ロシアの歴史発展に及ぼした影響についても意見が分かれるという。そして「弱く分割されたロシア」がモンゴルの影響で「強力で、訓練された一枚岩の専制」へ転換したという学説を紹介している。

ゲルツェンによれば、2世紀にわたるまがまがしい時代、民は迫害されて零落(れいらく)し、いつもおびえて生活し、抑圧された者たちに固有の狡猾(こうかつ)さと追従の特質が現れる。公共の精神は消え、深い亀裂が生じ、国家の一体性は崩壊の危機に瀕した。

モスクワの大公たちがキーウ(キエフ)を気遣うことを止めた時から、民と政治の在り方を規定する二つの原理が争いはじめたという。共同体の権利を公の上位に置く古くからの制度か、一人の人間の専制的権力によるかだ。出来事は専制の側に有利に展開してロシアは救われたが、その代償は生活で自由であったものすべてを圧殺したことだ。

ゲルツェンは、帝政末期、国際間の闘いで「ツァーリ権力がこの戦いを生き延びることはないだろう」と考えていた。それはルーシ(ロシアの古名)的ではなく、ビザンツ化されたドイツ的なものだからで、やがて過去のものとなるだろうと予言した。

新しい時代を、ロシアの「共同性」を保持し、西欧の「自由」「個人性」「人間の尊厳」と提携した「社会主義」に見ていた。ここにゲルツェンの現代性がある。

(増子耕一)

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