【フランス美術事情】フランス中に広がった浮世絵/ボナールと日本

自由を謳歌する大衆化時代

ピエール・ボナール作「花のアーモンドの木」=1930年頃、Musee Bonnard´ Le Cannet

日本かぶれのナビと呼ばれるフランスの時代の潮流に合致

日本のジャポニスムが開国に合わせてヨーロッパを席巻した中、その後、巨匠となった何人かの芸術家について、100年以上を経て、フランスは、その検証を続けている。フランス南部、セザンヌがアトリエを構えたエクス=アン=プロヴァンスでは「ボナールと日本」展(10月6日まで、オテル・ドゥ・コーモンにて)が開催中だ。

同じ時代のモネやマチスに比べれば、ピエール・ボナールは控えめな性格で、生前に自身の美術館を建てる野心もなかったため、その知名度はいま一つだった。だが、今ではフランス南部カンヌ近くのボナールの家があったル・カネにボナール美術館がある。

彼は若い時からパリ万博をきっかけにフランス中に広がった日本の浮世絵に関心を持ち、彼の自然観、世界観、芸術観に多大な影響を与えた。時代はベル・エポック(美しき時代、1890年から1914年)に差し掛かり、社会的不安定さはあったものの、保守的伝統から解放された近代市民が自由を謳歌(おうか)する大衆化の進む時代でもあった。

日本は万博で浮世絵、琳派(りんぱ)、工芸品を持ち込んだが、浮世絵に関して想定外の評価を得た。理由の一つは、その名の通り、浮世(別名、憂き世)にある俗世を題材にしたことで、世俗化、大衆化が進むフランスの時代潮流に合致していたからだ。

1890年、パリの超エリートが通うルイ=ル=グラン高校を経た弁護士であり、その傍ら、エコール・ジュリアン、ボザール(国立美術学校)で絵画を学び、週末はポスターデザイナーとして活躍していた。彼はそのボザールで開催された日本美術展に衝撃を受け、以来、日本美術の影響は濃厚だが、1900年以降の色彩の鮮やかさにはフランス人らしい特徴もある。

画学生時代に知り合い、後にナビ派の中心人物となったモーリス・ドニの影響もあり、ヘブライ語で「預言者」を意味する「ナビ」という言葉を冠した新たな美の追求運動でボナールは中心的存在となった。ボナールは当時、「日本かぶれ(ジャポナール)のナビ」と呼ばれた。

産業革命によってもたらされた都市化が画家たちを取り巻く環境も変えた。江戸時代の江戸の庶民が浮世絵に興じ、歌川広重の東海道五十三次に見られる風光明媚(めいび)な風景を楽しむ文化が生まれたように、印象派の画家たちの周りは、キャバレーなど娯楽文化が花咲き、同時に都市化で失われた自然を絵画に求める要求もあった。

そんな時代に浮世絵は合致していたのかもしれない。ボナールは日本美術から西洋の遠近法を超えた別世界を見いだし、掛け軸からは縦長の画面の作品の可能性を学んだ。同時に東洋美術の精神文化でもある人間と自然を同一視し、自然に埋もれた人間を描く作風は生涯変わることはなかった。

ボナールは1926年、58歳の時に妻、マルトとともに南仏の美しい自然に囲まれたル・カルネに引っ越した後は、何気ない日常の自然がモチーフとなり、色彩の画家として自然から得たイメージを独特のスタイルで形象化することに専念した。結果、約300点(風景画103点、室内画153点、庭の絵24点)の作品が残された。

(安部雅延)

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