【フランス美術事情】「アメデオ・モディリアーニ。画家と彼のパリの画商」展

35歳で他界した短くも強烈な人生

「ポール・ギヨームの肖像」1915年作 アメデオ・モディリアーニ=RMN Grand Palais(Musee de l’Orangerie) / Herve Lewandowski.

オランジュリー美術館で開催

巨匠に押し上げた画商ギヨーム

西洋近代美術の発展は、王侯貴族や大商人に代わり、パトロンとなる画商や収集家によって画家たちは世に知られるようになった。理由は多くの画家が自分の個性で勝負するようになり、パトロンたちが画家と世の中のニーズを結びつける役割を担ったからだ。

ゴッホはその先駆的画家だったが、1884年にイタリアで生まれたアメデオ・モディリアーニがパリに到着したのは1906年だった。トスカーナ生まれの青年アメデオはパリに到着する前に、母親とミラノ、カプリ、アマルフィ、ローマ、フィレンツェ、ヴェネチアを旅し、イタリア美術に触れていた。

パリのオランジュリー美術館では「アメデオ・モディリアーニ。画家と彼のパリの画商」展(2024年1月15日まで)が開催中だ。1914年、詩人で画家だったマックス・ジャコブの紹介で知り合った若き画商、ポール・ギヨームがモディリアーニを陰で支えた。それ以前はポール・アレクサンドル医師がパトロン的存在だった。

1915年から翌年にかけて、モディリアーニは商人やパトロンの肖像画を4枚描き、結果的に150点以上の作品がギヨームの手に渡った。短命だったモディリアーニにとって、ギヨームは貴重な存在だった。それから100年後、2人の関係をひもとく展覧会が開催されている。

35歳で他界したモディリアーニの短くも強烈な人生は、20世紀初頭に才能あふれる画家として、さまざまな物語に彩られ、多くが映画化されたことで、彼の本質が見極められずにいるとも言われ、20世紀の芸術家の象徴になっている。

今でいえば、アスペルガーや発達障害に属すがゆえの純粋さと貴族的優雅さを備えたイタリア人は、エコール・ド・パリの時代のモンパルナス界隈に深く刻み込まれた。しかし、彼と付き合ったパトロンや画商は「彼は決して芸術の殉教者になりたいとは思っていなかった」と証言している。

モディリアーニは1907年、サロン・ドートンヌ(秋季展)の1部として開催されたセザンヌ大回顧展を見て衝撃を受けたが、その後、彫刻に取り組んだ。だが、生来の虚弱体質で肺疾患のため断念した。

今回の展覧会はモディリアーニがポール・ギヨームと出会った期間、つまり、彫刻を断念し、絵画に専念した晩年の6年間に焦点を当てている。ギヨームはモディリアーニのためにアトリエを借り、彼の作品の収集に努めた。モディリアーニは徐々にパリの芸術界や文学界に知られ、ギヨームのコレクションはモディリアーニを世界的な巨匠に押し上げることに貢献した。

ピカソやスーティン、キスリングなど周囲の友人の肖像画を描いた。さらに1915年から16年にかけて、彼のパトロンを描き、その中にスーツを着たエレガントで自信に満ちた23歳の若い画商、ギヨームも描かれている。

モディリアーニが描いたマックス・ジャコブ、アンドレ・ルヴェール、ジャン・コクトー、モイーズ・キスリングなど当時のパリの主要人物の肖像画作品は、マスターピースとして後世に残された。無論、その中にモディリアーニと晩年、人生を共にした彼の子供を産んだ若い画家、ジャンヌ・エビュテルヌもいた。

(安部雅延)

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