トップ国際フランス美術事情 抽象の巨匠スーラージュ 反射する黒を追求

フランス美術事情 抽象の巨匠スーラージュ 反射する黒を追求

作品群は世界的に高い評価

追悼式典に大統領や閣僚も出席

作品を前にするピエール・スーラージュ Wikimediacommons

芸術家には夭逝(ようせつ)した天才画家もいれば、生前、まったく作品が売れず、死後何年も経って世界で高額で取引されているゴッホのような画家もいる。だが、世界に功成り名を遂げ、102歳まで生きて郷里に美術館が建ち、ルーヴルで追悼式典が行われた画家はピエール・スーラージュ以外にいないかもしれない。

今年10月26日に死去したスーラージュは、第2次世界大戦後、アメリカに芸術発信の地の地位を奪われたフランスにとって、ヨーロッパの抽象芸術のアイコンであり続けた貴重な存在だった。

黒を基調とした作品は、まるで水墨画や漆塗りの漆黒(しっこく)のようでもあり、日本にもファンがいて、スーラージュはフランス人画家としての活動初期から日本で作品展が開かれ、日本とは特別なつながりを持っていた。

「ノワール・ルミエール」または「ブラック・ライト」と呼んだ反射する黒を追求した作品群は、世界的に高い評価を得た。1979年に制作中の作品で失敗だと思っていた時に、反射する絵の具の絵肌から新たな技法を発見したことがスーラージュの画風を決めたという。

現代アートでは厚塗りはしばしばあっても、絵の具の反射を全面的に表現に活用する例は当時なかった。彼は絵が反射的であり「光は光の不在である色から来る」ことに気付き、鑑賞者にとって変化する日光による反射がアートの一部となり、「新しい精神空間」を生み出すと主張した。

彼はモンペリエで教鞭(きょうべん)を執っていた1942年にコレット・ローレンスと結婚し、彼女は夫を80年間支え続けた。第2次世界大戦終結前には抽象絵画に取り組んでいたスーラージュは、55年のニューヨーク近代美術館をはじめ、グッゲンハイム美術館などに作品が収蔵された。

戦後、フランスではアンフォルメルという抽象画の運動があったが、アメリカの評論家らが強烈な攻勢をかけ、ポロックなどのアメリカの抽象表現主義に主導権を奪われた。そこにいたスーラージュも複雑な時期を過ごしながらも、ニューヨークのアートシーンに食い込んだ。

87年から94年にかけ、ロマネスク様式のサント・フォワ・ド・コンク修道院のために104点のステンドグラスを制作した。2019年にルーヴルと共に100歳を記念する大回顧展を開催したポンピドゥー・センターは「現存する最も著名なフランス人画家」と呼んだ。作家が存命中のルーヴルでの個展は過去にはピカソとシャガールだけだった。

2001年、スーラージュはロシアのサンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館で存命作家として世界初の作品展示が行われた画家となった。コロナ禍では、美術館と芸術家を支援するルーヴルと競売会社によるチャリティーに参加し、彼は自分の作品を提供した。

追悼式典は11月1日の聖霊降臨祭の翌日の2日、マクロン仏大統領や閣僚も出席して、ルーヴル美術館中庭で開催された。マクロン氏は「ピエール・スーラージュは光を明らかにすることで黒を再発見することを可能にした。彼の作品は暗闇を超えて、私たち一人一人が希望を引き出す鮮やかなメタファーだ」とツイートした。

(安部雅延)

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