史上初の世界周航500周年 スペインで変わる定説

記念硬貨発行や関連行事
途中殺害されたマゼラン
時代を遡(さかのぼ)ること500年、1522年9月6日、大西洋が洗うスペイン南部の港町サンルカール・デ・バラメーダに、満身創痍(そうい)となった1隻の帆船が入港した。
スペインの航海者フアン・セバスティアン・エルカーノ(1476~1526年8月4日)率いるビクトリア号が、史上初の世界周航を成し遂げ、地球が丸い事を証明した歴史的な瞬間である。
世界史に輝くこの大偉業は、ポルトガルの航海者フェルディナンド・マゼラン(1480?~1521年4月27日)が達成したものとして知られている。しかし、マゼランは、航海途中、フィリピンのマクタン島で原住民との戦いで殺害されており、世界周航を成し遂げていないのは明らかである。
世界周航500周年を機に、スペインでは、世界史に埋没してしまったエルカーノに光を当て、その業績を正しく評価し、世界に広めようとしている。
特に、「世界周航500周年実行委員会」では、2019年から22年にかけて、記念硬貨の発行をはじめ、354にも及ぶ関連行事を企画、実行するなど、積極的な活動を行っている。
初の世界周航を達成したのは誰かについては、これまで歴史上の定説だったマゼランから大きく変わろうとしている。
スペイン出航の経緯、歴史的意義や価値はともかく、現実的に達成したのは、エルカーノと17人の部下であることは紛れもない事実であり動かしようがない。
マゼランの死後、船団はついに目的の香料諸島のティドール島(現インドネシア東部)に到着した。香辛料の仕入れを終え、帰航準備を進めていた段階で、僚船トゥリニダード号が、突然の浸水により航行不能に陥り、同島残留を余儀なくされた。善後策を議論した末、修復が終わり次第、往路と同じくマゼラン海峡(南米大陸とフエゴ島を隔てる海峡で大西洋と太平洋を結ぶ)を経て帰航する事が決定した。
急遽(きゅうきょ)、エルカーノはたった1隻となったビクトリア号の船長として帰国の指揮を任される事になるが、どのルートで帰航するかは迷っていた。最終的に、世界分割協定に違反する事は承知の上で、トゥリニダード号とは逆回りとなる、インド洋、アフリカ南西端の喜望峰を回航する航路を選択した。
管轄権を持つポルトガル軍に拿捕(だほ)される危険性は当然だが、最大の懸念材料は、スペインがインド、アフリカに補給拠点を持っていないことであった。1521年12月21日、香料諸島を出航したビクトリア号は、ポルトガル軍に見つからないよう沿岸から遠く離れて航行しティモール(オーストラリア北西部、現東ティモール)に到着。
最後の補給を終えたビクトリア号は翌年2月11日、スペインまで無寄港という大航海に旅立った。しかし、この無謀とも思えるエルカーノの決断が、結果的には世界一周という大偉業につながったのである。
西回り航海におけるマゼラン海峡の発見や初の太平洋横断など、マゼランの歴史的な業績は十分に評価され、また、統率した船団の残存乗員による史上初の世界周航は事実だが、マゼランは、世界周航を達成した訳でもないばかりか、目的だった香料諸島にすら到達していない。これが筆者の結論である。
(マドリード・武田 修)