旧約聖書の解釈の変遷 マルティン・ブーバーの試み

近代の資料批判学説に反論

モーセが神と出会ったというエジプトのシナイ山

空虚化された史実を再現

成立の事情と教えの本質確認

米国民の聖書についての信頼はかつてないほど下がっているという(小紙7月10日付「『神の言葉』と考える人20%」)。LGBT(性的少数者)の権利拡大や、家庭秩序の崩壊を考えると、道徳の根拠となってきた聖書についての結果も理解することができる。

聖書が神の言葉ではなく、歴史資料にすぎないという位置付けは、ドイツのユリウス・ヴェルハウゼンに始まる。旧約聖書学者の木田献一は『旧約聖書の預言と黙示』(新教出版社)の中で、「近代の旧約学は、ヴェルハウゼンによって確立されたと言ってよい」と述べ、それは「合理的な資料分析によって、分析した資料を、歴史の発展段階に照らして再構成するところに方法上の特徴がある」と解説する。

モーセ五書は、ヤハゥイスト(前9世紀)、エロヒスト(前8世紀前半)、申命記(前622年)、祭司文書(前400年頃)から成っていたという。

この学説は強い影響力で学界を支配したが、文書を近代的著作の次元で考え、文書成立以前については関心を示さず、伝統的モーセ像はバビロン捕囚期以後のユダヤ教団によって成立したと論じた。

この学説を継承したのが社会学者マックス・ウェーバーで、『古代ユダヤ教』(岩波文庫)の著作がある。彼もまた、十戒がモーセの所産だということはあり得ず、後に教育目的で創作されたと記した。日本語訳は内田芳明によるもので、訳者は1999年レッシング・ドイツ連邦政府翻訳賞を受賞。

これらの研究に対して、全面的反論を展開したのがユダヤ人哲学者マルティン・ブーバー(1878~1965)だった。しかもウェーバーが使った概念と思想を利用し、本質的に相違している見方を示した。これは彼が旧約聖書をヘブライ語からドイツ語に翻訳した経験に基づいていて、翻訳後、神学的注釈を書こうと企てていたからだ。

注釈の企ては実現しなかったが、代わりに主要な主題について数冊の本を書くことになった。そこで課したのは「ヴェルハウゼン以来、イスラエルの存在が正に空虚とされてしまった時代に対して、学問的に正当化されうる歴史像を獲得しうるかという問題である」。

これは『神の王国』(日本キリスト教団出版局)第一版の序文の中にある言葉で、ここで扱うのは士師記から五書とヨシュア記。イスラエルの初期、神が民族の王として支配するという信仰表象が、現実的歴史的な力を持っていたことを示していく。さらにサムエル記を扱った『油注がれた者』、そして『モーセ』と三部作を構成。

これらは計画の一部にすぎなかったが、全体を要約する形で書かれたのが『預言者の信仰』(Ⅰ・Ⅱ、みすず書房)だ。ブーバーは、確実な出発点を得るために、その時代を示す確かな文献が存在する段階から始め、一歩一歩後退して、どの時代にそのような性格を持った信仰が存在していたかを探り求め、確かにこれがその起源であるという段階まで到達しようとした。

各段階でその教えの成立の歴史的事情、教えの本質をも確かめていった。これは信仰の歴史的発展を示した歴史叙述で、再現されたそれらの出来事は、最初の企てのように神学的注釈の趣がある。歴史資料として扱ったがブーバーにとって旧約聖書は聖典に変わりはなかった。

(増子耕一)

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