戦禍や国家弾圧から逃れる芸術家の避難地
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多様性が優れた作品生む
ウクライナ支援 ストリート・アート
フランスは戦禍や国家弾圧から逃れた芸術家たちが活躍し、フランスを芸術の都に押し上げたことで知られる。
芸術分野において、世界に先駆けて人種や文化の多様性が優れた芸術を生むことを証明したのがフランスだった。
ロシアの軍事侵攻で戦争の終結が見えないウクライナ危機に連帯を示すフランスは今、展覧会や作品売買の収益を寄付したり、ウクライナ関連のイベントを頻繁に開催したりしている。
パリ6区のエティエンヌ・ド・クザン画廊で5月中旬から開催された「ウクライナのためのアート展」では、母親と共にスイス経由でパリに避難してきたウクライナ人画家、アナスタシア・イワノワの描いたウクライナ南部マリウポリの地下避難所で、すし詰め状態で休む女性や子供たちを描いた作品があっという間に売れた。
19世紀後半から20世紀初頭にはウクライナ出身の若き芸術家が多くフランスで学んだ。ウクライナ南部出身のミハイロ・ボイチュクは1907年にパリに到着し、ビザンチン美術を発展させ、ボイチュキズムと呼ばれる独自に手法を展開した。その後、ウクライナ国立美術建築アカデミーの創設者にもなったが、1937年にソ連圧政下で銃殺されている。
ウクライナ・オデーサ生まれのユダヤ系のソニア・ドローネーは、1905年にパリに到着し、当時のゴッホやゴーギャン、マティスに影響を受け、徐々に抽象画の境地を開いていった。
1960年代、画家で芸術理論家のアレクシス・グリチェンコやボイチュクなどウクライナ出身で世界的評価を受ける芸術家の作品が、ソ連政府から「ブルジョア主義」との批判を受け、ウクライナのリヴィウ美術館などに所蔵されていた彼らの作品群が廃棄されている。
ロシア帝国末期からソ連邦時代のウクライナには芸術面で有能な人間が多く存在した。彼らの多くは革命と戦争に翻弄(ほんろう)される中、パリを通過し、さまざまな国籍を持つ優れた若い芸術家らと交流し刺激を受け、結果として近・現代西洋美術に優れた足跡を残した。
パリでは今、現役のアーティストの間でウクライナの芸術家への連帯を示すための活動を活発化させている。中でもメッセージの即効性のある現代的なストリート・アートは、質を高めてパリの街の中にそのメッセージを見ることができる。
その代表格はアーティスト名、セスとして活躍しているジュリアン・マランの作品だ。パリ13区のビュオ通りに面した壁に描かれた戦車を踏みつけながらウクライナの国旗を掲げて大股で歩く少女の絵のメッセージ性は高い。彼はウクライナ東部の激戦地ドンバス地方を過去に訪れた時に得たインスピレーションで、図柄を思い付いたと述べている。
パリ13区のドムレミー通りとパテー通りの角にある建物の壁に4階の高さの巨大な壁画が掲げられた。ウクライナ国旗の配色の上に描かれた花の冠を被った少女像は、フランスでC215という名で知られるストリート・アーティスト、クリスティアン・グエミーの作品だ。パリはウクライナへの連帯に強いメッセージを発している。
(安部雅延)