世界日報 Web版

口の筋肉が動かせない


“拉致監禁”の連鎖(232)パート10
被害者の体験と目撃現場(18)
500

ベランダ側を撮影した荻窪フラワーホーム(東京・杉並区)。この最上階(804号室)には後藤徹氏、5階の1室に舞さんが監禁されていた

 舞さんは1996(平成8)年2月に監禁されて6カ月以上も、無言を通した。話し始めたのは8月か9月からのこと。その間、監禁場所が1度変わり、季節も移ったが、「宮村なんかと絶対話すものか。宮村と通じて再び私を監禁した家族とも絶対に話さない」-その一念だった。

 閉じ込められた一室で、毎日、天井と開かない窓と、畳をずーっとにらんでいた。気が狂いそうなくらい外に出て外気を吸いたくなった。ここから出られないという悲しみが込み上げ興奮してくると、一瞬、キーッと神経に電気が流れるような怒りの感情が走った。

 その思いをコントロールしなければならない、まさに“神経戦”だった。

 家族は家族で、強いられた忍耐を続けてきた。宮村氏から「脱会までは解放しない」と約束させられ、娘の監禁まで実行してきた家族にも意地があったのだろう。しかし、弟は姉の監視にかかりっきりだったため、妻子から突き上げの小言を言われ精神的に追い詰められていた。

 ある時、そのことで宮村氏配下のスタッフに電話をした。すると、宮村氏はマンションの下に駆けつけ、呼び出した弟に「大丈夫か」とカツを入れて、すぐさま戻したという。互いにギリギリの限界にきていた。

 弟がついにキレた。舞さんに向かって、逆に「おまえ、いつまでこんなことをするんだ」と、ストレスを怒りに変えてぶつけてきた。彼女の頭をつかんで壁にぶち当てたりもした。舞さんもまた精根尽き果てて絶望の淵にいた。

 舞さんは「心が折れてしまっては、自分で自分の信仰を守り切れないだろうな」と思うまでになった。「このまま向こうの話を聞いていたら、話の内容に染まるだけだろうな」とも思った。反論する気力も失せ、ものごとを判断するための資料も手元になかった。それでも、協会をやめるようなことになっても、監禁に手を染めてきた親に謝意を表すことだけはさせないでほしい、という約束を両親や宮村氏から取り付けたかった。

 「話すから宮村さんを」という内容を家族と筆談した。やって来た宮村氏は、そのことを筆談で受け取ると「そんなの当たり前だよ」と舞さんの思いを汲み取るそぶりを見せた。脱会間近だと見てほくそえんでいたのかもしれない。両親は正座し、神妙な面持ちで聞いていた。

 舞さんは、唇の間から息は出るが、長い間使わなかった口の周りの筋肉をうまく動かせない状態に陥っていた。「ヒーッ」というだけで、うまく声が出ず、舌ったらずの甘えたような話し方になっていた。

 宮村氏に髪の毛をつかまれたまま台所に連れて行かれ、頭を流し台にがーっと突っ込まれた。頭の上から「うがいをしろ」という声が聞こえ、水道の水がほおを流れ落ちてきた。仕方なく横すすりしてうがいをしたが、うがいで声が出るわけではなかった。

 しゃべることができるようになるまでに3日ほどかかったのである。

(「宗教の自由」取材班)