トップ文化旅・レジャー歌に生き「婦道の鑑」に、後藤逸女の足跡を求めて(秋田県湯沢市)

歌に生き「婦道の鑑」に、後藤逸女の足跡を求めて(秋田県湯沢市)

天才的女流歌人 「農聖」誕生にも寄与

 最近、気になっている女性がいる。幕末から明治にかけ秋田が生んだ「天才的な女流歌人」「近代の小野小町」と評される後藤逸女(いつじょ)である。一農家の娘でありながら、2千首を優に超える和歌を流麗な筆で書き残した。後年は病身の父親のため秋田藩の江戸藩邸から帰郷し、介護に当たった。また障害を持ったわが子を結婚させ「婦道の鑑(かがみ)」とも称された。逸女の足跡をたどる。(文と写真・伊藤志郎)

 秋田県の種苗(しゅびょう)交換会を誕生させ日本一の農業指導者となった石川理紀之助(りきのすけ)が19歳で家出し、現在の湯沢市川連(かわつら)に立ち寄った際、自分より30歳年上の逸女に和歌と書を教わり、一念発起して故郷に帰った、という話を聞いたのが、逸女との初めての出会いだった。

秋田県湯沢市湯沢駅周辺の地図
秋田県湯沢市湯沢駅周辺の地図

 秋田市から車で高速に乗り約1時間半、川連町字野村(あざのむら)の龍泉寺に逸女の記念碑があるので訪ねた。逸女の生家は寺の斜め向かいで小さな石碑が立つ。

石川理紀之助らが建立を推進した「後藤逸女頌徳碑」=秋田県湯沢市川連町
石川理紀之助らが建立を推進した「後藤逸女頌徳碑」=秋田県湯沢市川連町

 逸女は本名を「イツ」と言い文化11(1814)年に生まれ明治16(1883)年に亡くなった。農家に生まれ、一人娘として祖父母や両親の愛情を一身に受けた。幼少の頃から才能を認められ歌や書、国学を習う。

 秋田県立博物館から同館所蔵の逸女自筆の色紙の写真と自画像を提供していただいた。実に達筆である。

後藤逸の和歌色紙「月影は」(秋田県立博物館所蔵)
後藤逸の和歌色紙「月影は」(秋田県立博物館所蔵)

月影はいりぬる
森の木かくれに
ひかり残して
にほふ夘はな

後藤逸女の自画像(秋田県立博物館所蔵)
後藤逸女の自画像(秋田県立博物館所蔵)

 「月の光は、森の木陰にすっかり沈んで見えなくなってしまった。しかし、その月が消え去った暗闇の中に、まるで光をそこに残したかのように、白く鮮やかに咲き匂っている卯の花よ」(現代語訳)

卯(う)の花はウツギの花の別称で、唱歌『夏は来ぬ』の冒頭に出てくる。

 逸女は「源氏物語」54帖全巻の写本、自筆の「徒然草(つれづれぐさ)」のほか、万葉集、古今(こきん)和歌集、新古今和歌集を愛読していた。裁縫と機織り、蒔絵(まきえ)も習得している。

 蒔絵を教えたのは漆器(しっき)の蒔絵師だった。生家近くの湯沢市川連漆器伝統工芸館を訪ねた。1階は箸やアクセサリーからたんすなどの家具まで展示販売。「毎月15日は全品20%OFF」とあった。2階は川連漆器800年の歴史資料や工具、名品がある。

 逸女は16歳で婿養子を迎え、第一子・寅吉(とらきち)を得るものの、間もなく夫と死別、その後は独身で過ごした。

 歌の評判が秋田藩主の耳に入り、やがて江戸藩邸に召される。しかし34歳で父の看病のため帰郷。明治維新後は貧苦の中で作歌、揮毫(きごう)、後進の指導に努め、最期は息子と曽孫(ひまご)との3人家族に囲まれ、70歳で逝去した。

 逸女の足跡を辿(たど)る中で、ふと、湯沢凧(だこ)を見たのだろうかとの思いが頭をよぎった。逸女が生きていた時代には存在していたが彼女と凧の直接的接点はない。しかし同時代に生き、同じ佐竹南家(さたけなんけ)に仕えていた武士・阿王平馬(あおうへいま)によって湯沢凧の代表作とされる「まなぐ凧」(秋田の方言でまなぐは目を指す)が生まれている。

「湯沢凧春風館」。小野育朗さんは「まなぐ凧」や武者絵、歌舞伎絵など200点以上の凧を作製・収集
「湯沢凧春風館」。小野育朗さんは「まなぐ凧」や武者絵、歌舞伎絵など200点以上の凧を作製・収集

 趣味が高じて自宅に「湯沢凧春風館」をつくったのは、湯沢凧同好会会長の小野育朗(いくろう)さんである。千石町(せんごくちょう)にあり、ガレージの2階には壁から天井まで200点以上の貴重な凧を展示している。事前申し込みで、和紙に絵を描き、実際に空に揚げられる凧を良心的な料金で作ることができる。問い合わせは、電話0183(73)9428。

 平安の歌人を偲(しの)ぶ「小町まつり」が、今年は6月13日(土)午後5時から小町の郷(さと)公園で開催される。豪華な蔵の残る町並みや横手市増田まんが美術館も近く、10月には「真人(まと)公園りんごまつり」が開かれる。 

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