<たましいの、抜けたひとのように、足音も無く玄関から出ていきます。私はお勝手で夕食の後始末をしながら、すっとその気配を背中に感じ、お皿を取り落とすほど淋しく、思わず溜息(ためいき)をついて、すこし伸びあがってお勝手の格子窓(こうしまど)から外を見ます>
太宰治の『おさん』は妻の独白で構成された短編小説で、舞台は作者が昭和14年9月から23年6月に亡くなるまでを過ごした東京・三鷹の地。妻には夫と3人の幼子がいて、妻による独白形式は『ヴィヨンの妻』『家庭の幸福』『桜桃』などにも共通している。夫は太宰治自身がモデルだ。

窓から見た外にはかぼちゃの蔓(つる)が絡み付いた生け垣があり、それに沿った小路を白浴衣に細い兵児(へこ)帯を巻いた夫が歩いていく。家の周りの情景も、夫婦間の出来事も詳細に描かれ、昭和20年3月の空襲で夫が妻子を疎開させた話は、実際の体験が基になっている。
この小説が特異なのは1年後に太宰が起こす愛人との心中事件を、あらかじめ予示した作品となっていることだ。夫の言動と、それを見守る妻が思いを語り、最後は妻が幼子たちと夫の死体を引き取りに行く場面で終わる。
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ところで『みたか散策マップ』(みたか都市観光協会)には「太宰治の足跡コース」の欄があり、これを見てJR三鷹駅南口から太宰の旧居跡に向かった。
玉川上水が東へ流れている。太宰の生きていた頃、川は深かったが、今は水量が少ない。川沿いの南側の道が「風の散歩道」。太宰がよく歩いた道だ。車道の両側には歩道があり、歩きやすく、明るくて、景色もいい。
むらさき橋の手前、建物の並んだ側に「玉鹿石(ぎょっかせき)」という石碑があった。
太宰の古里、金木町(かなぎまち)(現・五所川原(ごしょがわら)市)産で、黄褐色のごつごつした原石のまま。ここで太宰と山崎富栄(とみえ)が入水(じゅすい)したという。また太宰が作家仲間や編集者を連れてきた場所だったという。しかし説明板がないので、人は通り過ぎるだけ。
山本有三記念館の角を折れ、住宅街の中にある平和通りを行く。しばらく行くと左側に「みたか井心亭(せいしんてい)」がある。茶会が開かれる場所だが、道の向かい側に太宰の旧居があったという。しかし家が密集していて今はよく分からない。
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太宰家の門柱脇に植えられていたというサルスベリが、家が取り壊される際、井心亭の庭に移植された。大きく育っている。夏にはピンク色の花をたくさん咲かせるのだ。このサルスベリが『おさん』に登場する。
炎天続きの後、にわか雨があった日、夫がリュックを背負って旅に出る。雨が止(や)むのを待っている時、妻に語り掛ける。<さるすべりは、これは、一年置きに咲くものかしら>。その年は咲かなかった。妻がぼんやり答える。
<そうなんでしょうね>

これが夫と交わした最後の夫婦らしい会話だったという。その3日後、諏訪湖で心中事件があったという記事を妻は新聞で知る。夫は<よい夫、やさしい夫>だった。
さて歩いて来た道を戻って三鷹駅前まで行き、向かいのビルの三鷹市美術ギャラリー内にある太宰治展示室に行ってみた。展示されているのは「三鷹の此の小さい家」で、旧居を再現している。
玄関の奥が6畳間で、太宰の書斎であり応接間だった。その右側の3畳間が一家だんらんの部屋。玄関の右脇が台所だった所。展示室で畳があるのは6畳間だけで、奥は廊下。
企画展示「『三鷹綺譚』最後の人―師・太宰治」が開催中だ(5月17日まで)。太宰の弟子、小山清を特集した企画で、小山は太宰が疎開した後、三鷹の家の留守番役を務めた作家だった。小山はこの部屋で文芸談議を交わした作家仲間の一人。小山宛ての太宰の葉書からは、面倒見のいい師匠としての姿が浮かび上がってくる。
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さて、もう1カ所、近くの「太宰治文学サロン」にも行ってみた。ここに展示されているのは太宰関係の文献で、図書類が壁面を埋めている。
このサロンで楽しいのは「太宰治文学サロン通信」を読めることだ。太宰がどんな読まれ方をしているのか、参考になる話題が多い。「2026Mar.vol69」で、役者・久米昭氏の娘、久米ナナ子さんが太宰の『お伽草紙』を父の思い出と共に紹介している。特に「前書き」が好きだという。ナナ子さんが語るのは、父の朗読した『お伽草紙』のレコードを見つけて、懐かしく聴いたことをきっかけに、朗読で聴くことによる感動を伝えている。
(増子耕一、写真も)
『おさん』太宰 治

『改造』昭和22年10月号に発表された小説。太宰が三鷹の家に疎開先から帰ってきたのは昭和21年11月。亡くなる23年6月までの3年間に、長編『斜陽』と『人間失格』の他、多数の短編を発表。『おさん』もその一つ。
おさんの名前について、作者は「あの、昔の紙治のおさんではないけれども」と書いている。おさんは、近松門左衛門の『心中天網島』に登場する女性で、小売紙商・紙屋(かみや)治兵衛(じへえ)の妻。紙屋治兵衛は遊女小春と恋仲に落ちるが、妻はそれを知りつつ夫を支え、愛し続ける。小春もおさんの気持ちを思って身を引こうとするが、忘れることができない…。
『おさん』は私小説のようでありながら、名作をそのまま本歌取りしている。そう考えると太宰の心中事件は古典をなぞった事件だったともいえよう。
新潮文庫版では『ヴィヨンの妻』に収録されている。





