<木曾路(きそぢ)はすべて山の中である。あるところは岨(そば)づたひに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いてゐた>
この荘重な文章で始まる島崎藤村の『夜明け前』は、中山道の宿場町馬籠(まごめ)の本陣、問屋、庄屋を兼ねた青山半蔵を主人公に、幕末維新の時代を描く壮大な歴史小説である。馬籠宿(じゅく)は藤村の生まれ故郷であり、青山半蔵は藤村の父、島崎正樹をモデルにしている。

ペリー来航から明治維新までが第一部、第二部で維新後を描く。馬籠宿は、東西交通の要衝で、幕末には京都から皇女和宮(かずのみや)が降嫁し、東からは武田耕雲斎(こううんさい)率いる水戸浪士(天狗党)が大挙押し寄せるなど、時代の激動をもろに反映する場所でもあった。
そんな中、武家と町人百姓の間にあって奔走する日々を送る半蔵は、一方で平田派の国学の心酔者でもあった。当時、木曾や伊那地方には、有力町人を中心に平田派の国学が広まっていた。中には過激な活動家もおり、京都の等持院の足利尊氏ら歴代将軍の木像の首を引き抜いて三条河原に晒(さら)した事件に関与した同志を半蔵が匿(かくま)ったりしている。

半蔵自身はこのような過激な行動に出ることはなかった。しかし一方で「半蔵さん、君は結局宗教にでも行くような人じゃありませんか」と妻のお民の兄で隣の妻籠宿(つまごじゅく)の庄屋を務める寿平次に言われたりする。藤村はこの「草叢の中から」の国学運動とその悲劇を通し明治維新前後の歴史を描き直そうとしたのだ。
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第一部の最後、中津川の同志の香蔵が訪ねてきて、王政復古が成ったことを知らされる。
<一切の変革はむしろ今後にあらうけれど、兎も角も今一度、神武創業へ――遠い古代の出発点へ――その建て直しの日がやつて来たことを考へたばかりでも、半蔵等の眼の前には、何となく雄大な気象が浮かんだ>
しかし神武創業の始(はじめ)に帰るという国学の理想は、いったんは実現されたかに見えたものの、ことごとく裏切られていく。例えば木曾の山林は村民の立ち入りが厳しく禁じられていたが、一部は明山(あきやま)として開放されていた。それが維新後、すべて官有林となってしまう。第二部では、「御一新がこんなことでいゝのか」という半蔵の嘆きが主調音となる。
廃藩置県後、平田派の復古神道の思想は政権中枢から排除される。半蔵は失意の中で、精神に異常を来し、ついに座敷牢(ろう)に閉じ込められ、波乱の人生を終える。
文芸評論家の亀井勝一郎は、「歴史とは人間の恨みの膨大な累積である。果そうとして果しえなかった無念の情というものがある。歴史を愛するということは、畢竟(ひっきょう)この無念の情を史書の底に聞くことではあるまいか」と言う。
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「木曾路はすべて山の中」の藤村の名文のためか、馬籠には漠然と遠いイメージがあったが、実際は名古屋駅からJR中央本線の特急で中津川駅まで50分、駅前から北(きた)恵那(えな)交通のバスで25分。乗り継ぎ時間を入れて1時間半ほどで到着した。
中山道43番目、木曾に11ある宿場町の中で一番南の宿場町である。山の斜面の傾斜地に造られた古い町並みは大正4(1915)年の火災で石畳を残して焼失したが、後に再建された。街道の両側にカフェや土産物店などが並んでいる。
宿場街独特の風情があり、レンタルの着物を着て散策する若い女性、そして外国人旅行者も多い。町を貫く街道の石畳をかつて天狗党の武田耕雲斎、和宮の一行などが踏んで行ったのかと思うと、感慨深いものがある。

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石畳の坂を上った途中に藤村記念館がある。藤村の生家、本陣のあった場所に建てられ、藤村の長男楠雄(なんゆう)氏から寄贈を受けた5000点以上の資料を収蔵展示する。古い建物が焼失する中、『夜明け前』にも半蔵の父、吉左衛門の隠居所として登場する2階建ての木造家屋が残っている。ここで藤村は父から四書五経の素読を受けたという。

石畳の街道を上り切ると自動車道(県道7号線)にぶつかり、その向こうに高札場(こうさつば)跡があった。切支丹(キリシタン)禁制など奉行が書いた高札のレプリカが数枚張られている。さらに行くと展望台があり、雪が少し残った恵那山(2191㍍)が美しい山容を見せている。この山は『夜明け前』でもしばしば描かれる。
「お民、来てごらん。きょうは恵那山がよく見えますよ」と半蔵が妻に話し掛ける場面がある。
西の方は中津川方面の平野が見下ろせる。かつて中山道はそこを通り京都へ繋(つな)がっていた。
(特別編集委員・藤橋 進)
「夜明け前」

第一部は「中央公論」昭和4(1929)年4月号から6(1931)年10月号に、第二部が昭和7(1932)年4月号から10(1935)年10月号まで断続的に掲載。単行本は第一部が昭和7年1月、第二部は10年11月、新潮社から刊行された。
中山道・馬籠宿の本陣、庄屋を務め国学運動家で非業の死を遂げた主人公、青山半蔵の生涯を通し、幕末維新を描いた。藤村の父、正樹をモデルにしているが、主人公は正樹そのままではなく、理想化された部分もある。
馬籠宿の人々の生活を自然主義的手法で丹念に描くと共に、「大黒屋日記」などの史料に基づき、かつ透徹した史観で、壮大なスケールの生きた歴史を描き上げた。近代日本小説の金字塔との評価が定着している。






