<山門を入ると、左右には大きな杉があって、高く空を遮(さえぎ)っているために、路(みち)が急に暗くなった。その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺との中との区別を急に覚(さと)った>

主人公の野中宗助が、役所勤めを休んで鎌倉市山ノ内の円覚寺にやって来る。ここは臨済宗円覚寺派の大本山。知人の紹介状を持って、一窓庵という塔頭(たっちゅう)に住む釈宜道(しゃくぎどう)を訪ねる。
円覚寺は「山の裾(すそ)を切り開いて、一二丁奥へ上(のぼ)る様に建てた寺」で、左右の庵や丘を見ながら探すが見当たらず、逆戻りして調べ、先ほどくぐった山門の右手の方の高い石段の上に見つけた。
一窓庵は日当たりがよく、庫裡(くり)の方から声を掛けるが応答がない。そこで門の方に引き返していくと、剃(そ)りたての頭の坊さんが上がってきた。色白の若い僧侶。釈宜道さんだ。ここに宿泊して宜道さんから指導を受け、山門から一丁奥の蓮池(はすいけ)の上の伽藍(がらん)にいる老師のもとに参禅する。
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さて冬の一日、JR北鎌倉駅で下車し、円覚寺に向かった。ここは世界的な観光名所で、西洋人やアジア人など観光客がたくさん歩いている。道脇に座禅会の案内が出ていて、今も修行に来る人々は多いようだ。
拝観入り口で拝観料を納めると、境内の配置図をくれた。見ると一窓庵のモデルになった帰源院の場所はすぐ分かった。が、宗助と同じ道を進んだ。
蓮池は妙香池という名で、漱石が記したように向かい側は石の崖で「文人画にでもありそうな風致」だ。
蓮池を見て、もと来た道を戻って、帰源院を訪ねた。石段の上の山門は通行できず、脇から入っていくと、漱石の書を刻んだ石があった。「仏性は白き桔梗にこそあらめ」。帰源院のことは『夢十夜』の第二夜にも登場する。

さて宗助の参禅だが、老師は50がらみで、赤黒く光沢のある顔、皮膚も筋肉も締まって、普通の人間にない精彩が閃(ひらめ)き、その視線は暗中に白刃を見る思いがした。その老師から「父母未生(みしょう)以前の本来の面目は何だか、それを一つ考えてみたらよかろう」と公案を出される。
結局、公案はうまく解けず、知っていることを語っただけ。老師は「もっと、ぎろりとした所を持って来なければ駄目だ」「その位な事は学問をしたものなら誰でも云える」と答えた。
作者は、参禅を終えて去っていく宗助について「彼は門を通る人ではなかった。又門を通らないで済む人でもなかった」と記した。
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この作品が「朝日新聞」に連載されたのは明治43(1910)年だったが、漱石が参禅したのは明治27(1894)年12月から翌年1月にかけて。青年僧・釈宜道のモデルは釈宗活、老師のモデルはその師、釈宗演だった。
漱石の参禅する前年の9月、釈宗演は米国のシカゴで開かれた万国宗教大会に4人の日本仏教代表の団長として出席した。その講演原稿を、仏教学者の鈴木大拙が英訳している。
この英訳について塩谷賛編『夏目漱石辞典』その他、大拙の依頼で漱石の訂正の筆が入っている、と伝えられてきた。だが、漱石の参禅は万国宗教大会の後で年代が合わない。事実は「筆が入っている」と語った大拙の記憶違いだったが、記憶が改変されるほど漱石の禅をよく評価していたのではあるまいか。
宗助には公案が解けず、修業もよくできなかったが、釈宜道や老師の人物描写は見事で、参禅生活の様子が的確に表現されている。これは禅を知らなくてはできないことだ。釈宗演は漱石が亡くなった時、葬儀の導師を務めた。
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ところで『門』は弁証法的にドラマが進行する作品だ。物語はこんなふうに始まる。
<宗助(そうすけ)は先刻(さっき)から縁側へ座布団(ざぶとん)を持ち出して、日当たりの好(よ)さそうな所へ気楽に胡坐(あぐら)をかいてみたが、やがて手に持っている雑誌を放り出すと共に、ごろりと横になった>

秋日和のよい天気で、肘枕をして上を見ると、きれいな空が青く澄んでいる。居間の方では細君のお米が針仕事をしていて、「おい、好(い)い天気だな」とか、「ちょっと散歩でも為(し)ていらっしゃい」など言葉を交わす。
のどかでいかにも幸せそうな場面だ。宗助は朝に出て午後4時には帰る男。この日は日曜日で、叔父の佐伯宛てに手紙を書く。佐伯は、宗助の父親が亡くなった時、学生だった宗助に代わって遺産を管理している。宗助の弟、小六の学資もその遺産を当てにしている。
だがドラマの進行とともに、その遺産は当初渡された分の他、宗助の元に戻って来ないことが判明。さらに細君は過去に三度、流産・死産を重ね、もはや子は持てないと占い師から言われる。そして宗助がお米を奪った相手、安原が東京の地主の家にやって来るという話を耳にする。安原は、蒙古に行った地主の弟の友人だった。
宗助の心の傷がうずき、信仰にすがって弱い心を強くしようと、座禅の記憶を思い出して実行してみたが、何の実りもなく終わってしまう。ところが帰宅した後、地主に聞いてみると、安原は東京にいなかった。
<彼の頭を掠(かす)めんとした雨雲は、辛(かろ)うじて、頭に触れずにすぎたらしかった>
月が変わると、宗助の月給が5円上がり、小康がやって来る。
作中、落胆する宗助に釈宜道が禅の修業について語る場面があり、こう助言する。「決して損になる気遣は御座いません。十分座れば、十分の効があり、二十分座れば二十分の徳があるのは無論です」。その通りだった。
円覚寺の二人の名僧の偉大さが伝わってくる小説だ。
(増子耕一、写真も)
夏目漱石『門』

明治43(1910)年3月1日から6月12日まで「朝日新聞」に連載された。『三四郎』と前年に書かれた『それから』、『門』は3部作とされ、作者は男女の三角関係を扱ってさまざまな冒険を試みている。
『門』で問われるのは過去という時間だ。現在起きる出来事の数々は、過去によって方向付けられ、規定されているかのようで、やがては「父母未生本来の面目」という問いまで進む。お前の両親が生まれる以前の、お前の本当の面目は何だ、という問い。人間世界の次元を超えた、宇宙の根本を考えさせる問いだ。
漱石はその公案のヒントを冒頭に描いた澄んだ青空に暗示する。「則天去私」の思想はすぐ近くまで来ていた。写真は新潮文庫版。






