トップ文化旅・レジャー老舗旅館2軒の対立と和解 「松坂屋」の家族をモデルにー獅子文六『箱根山』

老舗旅館2軒の対立と和解 「松坂屋」の家族をモデルにー獅子文六『箱根山』

 「この数年来、夏になると、箱根の芦ノ湯へ行くのを、例としていたが、毎年のことだから、土地の事情に通じてきて、単に芦ノ湯ばかりでなく、箱根全山のうわさばなしが耳にはいる。これがなかなか面白い」
「あしのうみ」から見た上二子山
「あしのうみ」から見た上二子山

 「『箱根山』を降りて」と題する「付録」で書いている。

 作者・獅子文六が興味を引かれたのは「ケンカばかりしている山のこと」だったが、魅力的だったのは箱根の歴史。修験道の発達、関所の開設、文人たちが集まった芦之湯の東光庵…。箱根にはそうした歴史の厚みがあり、現代小説のバックに用いたかったという。

 ケンカとは、西武グループと、小田急を傘下に持つ東急グループとの間で繰り広げられた輸送シェア戦争。そこに第3の企業、藤田観光が割り込んでくる。

 冒頭は、昭和35年7月、東京駅前にある運輸省の建物の中で開かれた聴聞会。大臣たちと向かい合わせに西郊鉄道の会長・篤川と、南部急行の社長・近藤が前列に座り、各子会社の社長らも列席。

 両者間で激烈な論争が繰り広げられたが、篤川も近藤も途中で退席し、続きは子会社の社長らに任せたが、何の成果もなかった。

*  *

 作品の舞台は芦之湯で、宮ノ下から元箱根港へ続く国道1号沿いにあり、寛文2(1662)年に開かれた温泉地。「箱根七湯」の一つで、文化8(1811)年の「七湯の枝折」には、松坂万右衛門、紀伊国屋忠蔵など6人の名前が記録されている。

神奈川県箱根山近辺の地図
神奈川県箱根山近辺の地図

 この小説で芦之湯は「芦刈」の名で登場し、旅館は2軒。玉屋は寛文2年の創業。若松屋は創業者が玉屋の出で、かつては提携して同業者に対抗していた。

 だが箱根に関所が設けられると、箱根宿が繁盛する一方、箱根権現の門前町、元箱根はさびれた。玉屋は元箱根から嫁をもらい、若松屋は箱根宿から養子をもらっていて、湖畔の争いが芦刈に持ち込まれ、にらみ合いは150年も続いてきた。

 作者はこの関所をベルリンの壁に例え、「人間生活を阻害するものは、政治である」と論じる。

 玉屋の女将(おかみ)・森川里は89歳。夫も二人の子供も亡くなり、頼りは大番頭の小金井寅吉と若番頭の勝又乙夫。乙夫は17歳で、父親は戦時中、隣の若松屋に滞在していたドイツ兵で、母親は玉屋の女中だったが、終戦で父は帰国、母亡きあと玉屋で育てられた。

 一方、若松屋の家族は、主人の森川幸右衛門に妻で女将のきよ子、一男一女がいる。幸右衛門は東大法科の出で、旅館の経営よりも考古学研究に熱心だ。箱根山に縄文時代以前から住んでいたというアス族の研究に没頭し、旅館業をやめたいと思っている。

 先行きの怪しい2軒の旅館だったが、森川の娘、16歳の明日子が、しっかり者で成績優秀の乙夫に英語を教えてもらっているうちに恋が芽生え、将来を約束。両家は和解へと歩み始める。

*  *

 さて小田原駅で下車し、箱根関所跡行きのバスに乗り換えた。同じ路線を箱根登山バスと伊豆箱根バスが走っている。

 伊豆箱根バスに揺られて45分、「東芦の湯」で下車。

 平野部に温泉地が開けている。手前に「きのくにや」、その先に「松坂屋本店」。興味を引かれたのは2軒の旅館の前にある「阿字ヶ池」だった。その先の一帯が水をたたえた「あしのうみ」だったそうで、寛文2年、水を二つの谷に落として干拓し、温泉場を開いたという。

 第2次大戦中はドイツ兵らがここに駐留し、彼らが防火用水としてこの池を掘ったそうだ。「あしのうみ」は原っぱで、素晴らしい散歩道があった。

 東の山裾に弁財天があり、北の森の中に遊歩道が続いている。振り返ると上二子山が丸くそびえていて、芦之湯のシンボルとなっている。

 弁財天は明日子が乙夫から英語を教わった所。その上の朝日ヶ丘は、ふたりが客室に飾る花を採りに行った山で、道の崖で偶然、明日子が黒曜石の石器を発見し、持ち帰る。それを見た父親は驚き、自説を裏付ける証拠とする。

 坂道を登っていくと朝日ヶ丘三碑があった。「朝日ヶ丘旧石器遺跡」の碑は昭和36年、ローム層の崖から2万年前の石器が出土し、立正大学考古学研究室が発掘調査に当たったことを伝えている。石器は70個も出てきたそうだ。

 「あす宣言の碑」は、森川幸右衛門のモデル・松坂康氏が唱えた平和文明論「アス理論」に、中曽根康弘元首相や獅子文六、棟方志功らが共鳴、賛同して立てた碑だ。

 「恩人碑」は、この温泉地に逗留(とうりゅう)した若者の説話を伝えているが、ここが古代の箱根越えの道だったことを示している。

*  *

 「阿字ヶ池」まで戻ると、地元の人が「獅子文六さんは松坂屋さんに宿泊していました」と教えてくれた。松坂屋本店を訪ねると女将の牧野文江さんが教示してくれた。

1662年に開かれた芦之湯の松坂屋本店
1662年に開かれた芦之湯の松坂屋本店

 「獅子文六さんはご家族でも、一人で執筆をするためにも、よく宿泊していらっしゃいました」

 長い歴史と現代的センスが調和した旅館で、土産物売り場に『箱根山』の本があり、館内には松坂康氏の発見した黒曜石や、獅子文六と棟方志功による色紙も展示されていた。登場人物について尋ねてみた。

 「玉屋のおばあちゃんも、若松屋の家族たちも、みんな松坂屋の人たちがモデルなのです。明日子として登場するお嬢さんは、強羅の白百合学園に通っていました。乙夫は、この宿にドイツ兵が滞在していたので、そんなこともあるだろうと獅子文六さんが想像で作り上げた人物です」

ドイツ兵らが掘って作った 阿字ヶ池
ドイツ兵らが掘って作った 阿字ヶ池

 館内に文六の名付けたバーがあり、案内してくれた。「霧の中のバー」。ガラス面の外が森を感じさせる庭園で、よく霧が湧くという。その色紙も宿の歴史を刻む一枚となっている。

(増子耕一、写真も)

 『箱根山ちくま文庫版

『箱根山』獅子文六
『箱根山』ちくま文庫版

 昭和36年3月17日から10月7日まで「朝日新聞」に連載され、翌37年新潮社より刊行。背景の2大資本の争いについて、作者は「あのケンカがなかったなら、あんな小説を書かなかったかも知れないほど、面白かったのである」と語る。だがこのケンカを主題とはせず、対立していた2軒の旅館が和解と和合への道に進むことを示して、対比的なドラマを作り上げた。

 同37年、川島雄三監督により東宝で映画化。乙夫に加山雄三、明日子に星由里子が出演。

女将の牧野文江さんによると、当時のドイツ兵の孫たちが、今も松坂屋本店に宿泊に来るそうだ。写真はちくま文庫版

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