<文四郎はためらわずにその指を口にふくむと、傷口を強く吸った。口の中にかすかに血の匂いが広がった。ぼうぜんと手を文四郎にゆだねていたふくが、このとき小さな泣き声をたてた>

藤沢周平の長編時代小説『蝉しぐれ』は、下級武士の家の養子となった主人公・牧文四郎が隣家の娘・小柳ふくの蛇に噛(か)まれた指から毒を吸い取るという冒頭の章「朝の蛇」から始まる。この時、文四郎15歳、ふくは12歳。淡い恋心を抱き、お互いを意識し始めていた矢先に文四郎の取ったとっさの行動が強烈な印象となってふくの心に残る。
文四郎は友人たちと剣道の道場で稽古に励み、私塾に通っては経書を学ぶことを日課とする海坂藩(うなさかはん)の一少年であった。やがて父の助左衛門が藩内の政変に巻き込まれて切腹させられ、生活は一変する。父の亡きがらを引き取りに行き、荷車に乗せ家まで引いていく場面、雑木林ではセミが騒然と鳴いている。その時、屋敷の方から小走りに駆けてくる少女がいた。ふくは無言で文四郎の隣に駆け寄り梶(かじ)棒をつかんで懸命に車を引き始める。その目からは涙がこぼれ落ちている。罪人の子のレッテルを貼られた文四郎はその後、住み家も追いやられ苦難の人生を歩むこととなる。
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モデルとなった庄内藩では、どこの藩でもあるようなお家騒動やさまざまなトラブルが起き、そうした記録資料もたくさん残されているので、小説の題材には事欠かなかったと思われる。藤沢周平は山形県鶴岡市出身。地元の地の利を生かした生き生きとした風景描写が物語を貫いている。また、物語の所々にはセミが鳴く場面が登場し、さりげない効果を醸し出している。
住まいが移され母と二人で暮らす文四郎のもとに、ある日ふくが訪ねてくる。文四郎は剣の稽古で外出していた。帰ってきた文四郎に母は、ふくが江戸に行き奥屋敷勤めをすることになりあいさつに来たことを告げる。文四郎は急いでふくを追い掛けるが会えなかった。思いがけない境遇の変化に、文四郎はふくとの間に越えがたい隔たりが生まれたことを感じる。
この後、物語は文四郎を主軸としながら、悲しみや苦難を乗り越え成長していく姿と、周囲で起こるさまざまな問題を織り交ぜながら進んでいく。藩で1、2を争うほどの剣の達人となった文四郎の活躍も見ものだ。
何年もの月日がたち、ふくが藩主のお手付きになったことや、江戸から藩内に戻ってきているといううわさが流れる。胸騒ぎを覚える文四郎に思いがけない密命が下される…。
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終章では、物語の始まりからはすでに30年が過ぎ、文四郎は父の名と同じ助左衛門を名乗り郡奉行に、ふくはお福さまと呼ばれる身分となっていた。二人はすでに40歳を超えている。文四郎はある日、「間もなく髪をおろすが、今生に残るいささかの未練に動かされて、あなたさまにお目にかかりたい」という旨の手紙を受け取る。差出人の名前は書いていない。しかし誰からの手紙か文四郎にはすぐに分かった。急いで身支度をして、その方が待っているという「箕浦の湯宿」に馬を走らせる。
海の見える静かな部屋で、ふくが夢見るように語る。
<文四郎さんの御子が私の子で、私の子供が文四郎さんの御子であるような道はなかったのでしょうか>
文四郎は微笑しながらはっきりと返事をする。
<それが出来なかったことを、それがし、生涯の悔いとしております>
波瀾万丈、別々の道を歩んできた二人の人生が一瞬交差し、刹那(せつな)に燃えて、また別れてゆく。お互いに思慕の念を抱きながらも、決してつながることはできない二人。その切なさを清冽(せいれつ)に描き、物語は幕を閉じる。

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『蝉しぐれ』をはじめ、藤沢周平の時代小説に頻繁に出てくる「海坂藩」は庄内藩がモデルとなっている。三方を山に囲まれ一方に海が開けていることや、秋の農村風景など、地理設定は現在の山形県鶴岡市と酒田市を擁する庄内地方に一致する。鶴岡市内を歩くと、小説の舞台と思われる場所が幾つも点在している。『蝉しぐれ』に出てくる「五間川」は市内を流れる内川がモデルとされ、終章で二人が再会する「箕浦」は、湯野浜(ゆのはま)温泉がモデルとされている。

市内にある藤沢周平記念館を見学し、人影の少ない内川沿いを歩くと、川中に白鷺(しらさぎ)が一羽、獲物を狩っていた。この川に架かる朱塗りの鮮やかな三雪橋は、この橋から眺める鳥海山(ちょうかいさん)、月山(がっさん)、金峯山(きんぼうざん)の雪景色の素晴らしさから名付けられたと言われる。国指定史跡「庄内藩校・致道館(ちどうかん)」も見もので、藩に関するさまざまな資料が展示してあり、建物も当時のままに保存されている。館内は無料で見学でき、当時の様子や荻生徂徠(おぎゅうそらい)に学んだ庄内藩の学風などを、数多くの資料を通して知ることができる。

文四郎とふくの再会と別れの舞台となった「箕浦の湯宿」とされる湯野浜温泉は日本海に面した温泉街で、取材当日、砂浜ではビーチバレーに興じるグループや、磯遊びを楽しむ家族連れやカップルがいた。海から温泉街を隔てた背後には緑の山々が連なっている。文四郎とふくが駆け抜けたこの庄内地方にも、もうすぐ蝉しぐれの季節がやってくる。
(長野康彦、写真も)
<作品紹介>『蝉しぐれ』藤沢周平

長編時代小説。昭和61(1986)年7月から翌年4月まで山形新聞夕刊に連載された。藤沢周平の代表作で、最も読まれている作品と言えるだろう。海坂藩を舞台に少年牧文四郎の成長や彼を慕う幼なじみふくとの淡い恋を描く。物語の節目節目に蝉しぐれが鳴り響く。テレビドラマや映画化、舞台化もされた。美しい情景描写や情緒豊かな魅力が詰まった名作。写真は文春文庫版。






