トップ文化旅・レジャー深川で迎えた人生の転機 新たな句境求めて旅路にー中山義秀『芭蕉庵桃青』

深川で迎えた人生の転機 新たな句境求めて旅路にー中山義秀『芭蕉庵桃青』

<隅田の長江に鱸(すずき)のをどる、初秋の季節となつた。天地がにはかに明るく、ひろびろとしてきた感じである。芭蕉は読みかけの冊子をそのままひとり、文台によつて長江にむかつて舟のゆききを眺めてゐる。なかば放心のていで、時たつてもその姿勢をくづさない。>
展望庭園に設置された芭蕉像と隅田川。下流に清州橋がみえる
展望庭園に設置された芭蕉像と隅田川。下流に清州橋がみえる

延宝8(1680)年冬、松尾芭蕉は日本橋界隈(かいわい)から深川の草庵に移ってきた。四辺の風色が優れていて、いつしかこういう癖がついた。

史伝小説『芭蕉庵桃青』の冒頭。この草庵は隅田川に小名木川(おなぎがわ)の注ぐ三つまたの川辺近くにあり、上流には両国・浅草・上野、下流には永代の渡しから品川方面まで見渡された。目を上げると碧雲(へきうん)のうちに北に筑波山、西に富士山が遠望された。

芭蕉記念館の周辺の地図
芭蕉記念館の周辺の地図

草庵の名は泊船堂。幕府御用達、鯉屋杉風(さんぷう)の生簀(いけす)の番小屋だった所で、庭に古い池が残っている。庭木には乏しいが、門弟の贈ってくれた芭蕉があって、芭蕉庵と名を変える。

*  *

『芭蕉庵桃青』は作者・中川義秀の絶筆で、芭蕉の生涯の最後の2年間を残して未完のまま終わった。がんが再発し、死につながったからだ。亡くなる前日にキリスト教の洗礼を受けた。

深川への移住は芭蕉の俳句と人生の転機を告げるものだった。それを象徴したのが移住の前に作った「寒鴉枯木」を題材とした句だ。

「かれ朶に烏のとまりたるや秋の暮」

この句を発心としたかのように髪を剃(そ)ってこの粗末な小庵に移ってきた。芭蕉37歳。世捨て人の境涯に入って新たな句境を開こうとする意気込みだった。作者はその心境をこう記す。

<彼はその頃から、体内になにやらうごめく力を感じてゐた。小我をはなれ眼前の現象を離脱して、永遠の時のうちに不断の生命をみいだそうとする、曾て自覚したことのない活力である。>

だがその一方で、気ままな独居生活には孤独感と不安もあった。

<その世界は暗くて、もの哀しかつた。他にまぎらわす物をもたない孤独感と、なほ未明のうちをさまよつている不安が、彼の心情をむしばむからであらう。>

 これらの思いは義秀晩年の思いでもあったのだろう。

芭蕉に励みとなったのは、鹿嶋根本寺(こんぽんじ)の住職佛頂和尚との出会いだった。佛頂は鹿嶋から寺領の訴訟問題で江戸に来ていたが、滞在していた臨川寺(りんせんじ)は芭蕉庵の近くにあった。訴訟は勝利し、鹿嶋に帰っていくが、芭蕉はこの禅僧との交流を通じて学ぶことが多く、芭蕉もまた風雅の道を求めて旅に出る。

*  *

都営新宿線の森下駅で下車し、新大橋通りを西に進んで左折し、芭蕉記念館に向かった。この記念館は江東区によって建てられたもので、芭蕉や俳句関係の資料が展示されている。

よく手入れされた庭園にはヤマボウシ、ムクゲ、サルスベリ、カツラなど樹木も豊かで、この地で詠まれた句碑が来館者を迎えてくれる。「草の戸も住み替わる代ぞひなの家」の句だ。「奥の細道」の旅立ちに当たって詠んだもの。

2025年度前期企画展「深川芭蕉庵から今へ―芭蕉が築いた礎」が開催中で、深川での芭蕉について紹介している。「かれ朶に」の自筆短冊も展示されていた。

3階の常設展示場には、義秀が冒頭の文章を書くに当たって参照したと思われる、長谷川雪旦画の「芭蕉庵図」(「江戸名所図会(ずえ)」天保7年)が展示してあった。草庵の中で文台に寄り掛かり、長江を眺めている図だが、「天地がにはかに明るく、ひろびろとしてきた感じである」という心境は義秀独自の表現だ。

旅の衣装も再現されて展示されていた。黒衣、白衣、草鞋(わらじ)、手甲(てっこう)、脚半、網代笠(あじろがさ)など、行脚の僧侶の姿。茶人帽が俳人を思わせる。

戻って庭の裏から外に出て、隅田川に沿って芭蕉庵史跡展望庭園に向かった。

隅田川テラスにある芭蕉の句碑
隅田川テラスにある芭蕉の句碑

隅田川テラスに出ると大川が上流から下流まで見えるが、この小説の時代と違って、両岸はビル群に囲まれ、橋のデザインもモダン。上流には新大橋、下流には清洲橋があり、それ以上遠くは視野に入らない。

それでも大川を眺めるのは楽しい。川面が揺れ動き、細かな波紋が光を反射して、生き生きとしている。杭(くい)の根元に貝殻がくっついていて、杭に止まっていたカワウが突然、飛び立ったりする。

運搬船や面白いデザインの遊覧船が行き来し、水上スクーターまで走っている。

*  *

川面の穏やかな小名木川
川面の穏やかな小名木川

隅田川と小名木川の出合う角の所に芭蕉庵史跡展望庭園があった。芭蕉庵のあったという場所だ。階段を登ってテラスに上がっていく。

はじめ庵そのものを再建しようとしたが許可が下りず、芭蕉像を設置した展望庭園になった。今年で開園30周年を迎える。対岸を向いているが、午後5時になると像が90度回転して川下を向くそうだ。ここからの川の眺めも素晴らしい。

近くには芭蕉稲荷神社があった。「芭蕉遺愛の石の蛙」が出土した所だ。

芭蕉庵近くの小名木川の岸にはかつて川船番所があったという。

芭蕉はこの川で川遊びをし、「川上とこのかはしもや月の友」と詠んだ。「小名木川五本松舟遊びの図」という長谷川雪旦の絵がある。

この川に架かる万年橋を渡ると、すぐ川上に水門がある。その先から両岸とも遊歩道になっていて、散歩する人たちがいた。五本松がどの辺りかよく分からなかった。

川の流れは本流よりずっと静かだ。水音がしたので見ると小魚の群れをカワウが追っていた。

鹿嶋から佛頂和尚がここへ来た時も、芭蕉が和尚を訪ねて鹿嶋に行く時も、舟でこの運河を通って浦安へと向かったのだ。

(増子耕一、写真も)

 中山義秀『芭蕉庵桃青』

書籍「芭蕉庵桃靑」中山義秀
書籍「芭蕉庵桃靑」中山義秀

「中央公論」昭和40年11月号から連載を始め、途中断続しながら同44年7月号を最後に、2回分の連載を残して未完のまま終わった。食道がんの手術の後に執筆を始め、再発の予感を抱きながらの連載。没後、単行本として同45年1月、中央公論社から出版。

剣豪もの戦国武将ものなどの末にたどり着いた特異な作品。病と闘いつつ研究資料を読み、考証にも労をいとわず地道に筆を進めた。「苦しさの中にも楽しさがあつた」と回顧している。

歴史小説は作者にとって重要なジャンルで、その思いをこう語る。「歴史には、人間の生活が、要約されてゐる。その意味で、数学に似てゐる。解答は無数にあるやうで、正確には一つしかない。それを数学では公式といひ、人間の生活では道といふ」。書くことはその道を探ることだった。写真は中公文庫版。

spot_img

人気記事

新着記事

TOP記事(全期間)

Google Translate »