トップ文化旅・レジャー昭和の銀座にタイムスリップ 築地川は道路と公園にー三島由紀夫『橋づくし』

昭和の銀座にタイムスリップ 築地川は道路と公園にー三島由紀夫『橋づくし』

今年生誕100年を迎える三島由紀夫は、短編でも優れた作品を多数残した。中でも評論家の奥野健男が「憎らしいほど巧みな小説」と評するのが、銀座・築地界隈(かいわい)を舞台にした『橋づくし』だ。

陰暦8月15日の満月の夜、7つの橋を一切口をきかず、知り人に声をかけられずに渡り切れば願い事がかなう――。この願掛けに年増の芸妓(げいぎ)小弓、22歳のかな子、新橋の料亭の娘で大学生の満佐子、東北から出て来たばかりの女中のみな(、、)の4人が挑戦する。

三島由紀夫「橋づくし」周辺地図
三島由紀夫「橋づくし」周辺地図

<小弓が先達になって、都合四人は月下の昭和通りへ出た。自動車屋の駐車場に、今日一日の用が済んだ多くのハイヤーが、黒塗りの車体に月光を流している。それらの車体の下から虫の音がきこえている>

水際立ったデッサン力で鮮やかに描写された夜の街に読者は引き込まれ、そこに身を置く。続く文章では三島の詩的な感性の鋭さが発揮される。

<昭和通りにはまだ車の往来が多い。しかし街がもう寝静まったので、オート三輪のけたたましい響きなどが、街の騒音とまじらない、遊離した、孤独な躁音(そうおん)というふうに聞こえる>

「オート三輪」などが出てくると、この作品が書かれた昭和31年頃にタイムスリップしたような気分になる。昭和世代にとっては、三島作品を読む、新しい楽しみでもある。

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橋詰でそれぞれの願い事を祈りながら、三吉橋から始まり第3の築地橋まで渡った4人だが、ここでかな子が突然の腹痛に襲われ脱落。第5の暁橋の上では「ちょいと小弓さん」と昔なじみの老妓に声を掛けられた小弓が脱落する。

残ったのは満佐子と女中のみな(、、)。最後7番目の備前橋まで来た2人が橋詰で願いを込めて手を合わせていると、「何をしているんです。今時分、こんなところで」と若い警察官に声を掛けられる。川へ投身自殺をしようとしていると思われたのだ。

満佐子が黙っていると、警察官は満佐子の手をつかんで「返事をしろ。返事を」と迫る。満佐子はとにかく橋を渡った後で釈明しようと、その手を振り払って橋の中ほどまで来る。しかし追い付いた警官に腕をつかまれ、「逃げる気か」と言われ、思わず「逃げるなんてひどいわよ。そんなに腕を握っちゃ痛い!」と叫んでしまう。その間に、みな(、、)は橋を渡り切り最後の祈念を凝らして願掛けを成就する。

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この短編の舞台となった築地川は今ではほとんどが埋め立てられ、道路や公園になっている。それでも今も道路の上に三つの橋が架かり、公園に三つの橋跡の碑(いしぶみ)が立っている。

三島が書いたように昭和通りから銀座一丁目と二丁目の間の道を築地方面へ歩くと、ほどなく三吉橋にぶつかる。その下は首都高都心環状線で長い車の列ができている。かつての築地川は首都高の新富町の出口へ続く道路となっている。

最初に渡った三吉橋。平成に入り、かつての姿に近づけられた。写真右奥は三島も描いた鈴蘭燈
最初に渡った三吉橋。平成に入り、かつての姿に近づけられた。写真右奥は三島も描いた鈴蘭燈

三吉橋は建設当時と同じく三差路になっており、平成になって手が加えられ、かつての姿に近づけられた。歩道脇には三島が描いた鈴蘭燈(すずらんとう)がある。橋を渡って右手にあるこげ茶色の建物は中央区役所である。

区役所前の道を50㍍ほど進むと築地橋。さらに有楽町線新富町駅の入り口を過ぎ、しばらく行くと入船橋だ。ここまで来るとかつての築地川はほぼ直角に右に曲がり、その南支川となっていた。今は埋め立てられて築地川公園となっている。

入船橋。下の築地川だったところは道路が通っている
入船橋。下の築地川だったところは道路が通っている

長細い公園だが、葉桜が気持ちのいい木陰を作っている。樹下のベンチでサラリーマン風の人たちが憩っている。築地の真ん中にこんな場所があるとはちょっと驚きだ。まさに隠された都会のオアシスという感じである。

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公園の真ん中を聖ルカ通りが横断しており、その通りに面した一角に暁橋の碑が立っていた。さらに南側の公園の左手に堺橋跡の碑がベンチの横にあった。石造りの古い碑は竣工(しゅんこう)した昭和3年当時の欄干の柱らしく、昭和の香りがする。公園が尽きた所で7番目、備前橋の碑が立っていた。ゆっくり歩いても1時間ほどの橋巡りだった。

築地川公園に立つ暁橋跡の碑
築地川公園に立つ暁橋跡の碑

この七つの橋を巡る願掛けの風習など、東京の花柳界にはないようだ。三島はどこでこの材料を得たのか。実はこれと似た「七つ橋渡り」という風習が金沢にある。彼岸の中日に市内を流れる浅野川に架かる七つの橋を無言で渡り無病息災を祈るというもので、今も人々に受け継がれている。三島の母、平岡倭文重(しずえ)は加賀藩の漢学者・橋健堂の孫。倭文重が橋家の人々からそんな風習を聞かされ三島に話していた可能性もあるだろう。

(特別編集委員・藤橋 進、写真も)

 『橋づくし』三島由紀夫

三島由紀夫自選短編集
三島由紀夫自選短編集

昭和31(1956)年、『文藝春秋』12月号掲載。単行本は33年1月文藝春秋社から他6編の短編を収録して刊行。昭和43年刊の新潮文庫の自選短編集『花ざかりの森・憂国』(写真)に収められる。その解説で三島は、短編集の中の「女方」「新聞紙」と共に、「嘱目の風景や事物が小説家の感興を刺激し、一編の物語を組立たせたという以上のものではないが、中でも『橋づくし』は、もっとも技巧的に上達し、何となく面白おかしい客観性を、冷淡で高雅な客観性を、文体の中にとり入れ得たものだと思っている」と書いている。

昭和33年に三島が書いた舞台用台本で舞踊劇が上演され、同36年には新派でも劇化上演されている。英語をはじめイタリア語、ドイツ語、フランス語、韓国語、中国語などの翻訳版が出ている。

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