キリスト教への関心は描かれず
<四里の道は長かった。その間に青縞(あおじま)の市の立つ羽生(はにゅう)の町があった。田圃(たんぼ)にはげんげが咲き、豪家の垣(かきね)からは八重桜(やえざくら)が散りこぼれた。赤い蹴出(けだし)を出した田舎(いなか)の姐(ねえ)さんがおりおり通った>

田山花袋(たやまかたい)の代表作の一つ『田舎教師』の冒頭である。文学趣味を持ち向学心にも富みながら、結核を患い田舎の代用教員として短い生を終えた青年が主人公。日露戦争の時代を背景に関東平野の自然や風物を丹念に描きながら、主人公(林清三)の哀切な人生を浮かび上がらせている。

明治37年3月に博文館派遣の写真班の主任として日露戦争に従軍した花袋は、9月に帰国後間もなく、妻リサの兄で詩人の太田玉茗が住職を務める埼玉県羽生の建福寺を訪ねる。そこで花袋は、真新しい墓標を目にし、それがかつてこの寺に下宿していた小学校教員の小林秀三の墓で、遼陽陥落の日に21歳で亡くなったことを知る。

花袋はこの不遇の青年の人生を「日本の世界発展の栄光ある日に結び付けようと思い立った」(『東京の三十年』)のである。幸い秀三は中学時代(旧制)、教師時代の日記を残していた。そして「私はその日記の中に、志を抱いて田舎に埋もれて行く多くの青年たちと、事業を成し得ずに亡びて行くさびしい多くの心を発見した」のである。
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しかしこうして作品の想を得てからも、花袋はなかなか筆を執ることができなかった。その間、自然主義の記念碑的な作品となる『蒲団』『生』などの作品を書く一方で、この作の基調がロマンチックでセンチメンタルに偏りすぎている」と思ったのだ。「新しい思潮」に欠けていた。それでも最後はそんなことはいいから書こうという気になり、行田や熊谷を訪ね秀三の旧友たちに話を聞いた。
代表教員を務めた弥勒高等小学校も訪れ、秀三がよく歩いた利根川沿いの道を歩いた。花袋は日記の秀三と一体となっていった。「彼の眼に映ったシーン、風景、感じ、すべてそれは私のものであった」。作中、利根川の土手に生えるおびただしい草花の名前が出て来るが、これは日記に記されたものを元にした。
しかし重要なエピソードの一つ、主人公が利根川の対岸にある中田の遊郭に通った話は花袋の仮構であった。花袋は日記の1年分が抜けていることから、「青年の一生としては、そうしたシーンが、形は違っても何処かにあったに相違ない」と信じたのだという。
その一方で、秀三がキリスト教に関心を持っていたことは省かれた。尾形明子氏の岩波文庫解説によると、秀三は熊谷の教会に通い、弟の死に際して日記に「正しき神の摂理いづくにありや」と記している。遊郭通いとキリスト教では人物像のギャップが大きいと考えたからだろうか。キリスト教への関心は新思想に飢えた明治の青年の重要な一側面であり、実に惜しい気がする。
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小林秀三の墓のある建福寺は、東武伊勢崎線・羽生駅から歩いて5分ほどの市街にある。2階建ての立派な山門をくぐってすぐ左手が墓地になっていた。案内板もあり墓はすぐ見つかった。境内には、昭和13年に新感覚派の川端康成、横光利一、片岡鉄平が田舎教師巡礼の旅で訪ねた時の記念碑も立っている。自然主義に飽き足らない彼らが『田舎教師』の舞台を巡礼したというのは興味深い。
そこから弥勒高等小学校跡までは車を15分ほど走らせた。農地と住宅が交じり合った平野が広々と続いている。小学校跡の道路に挟まれた一角に田舎教師の銅像が立っていた。羽織袴に鳥打帽を被り、風呂敷包みを手に足を半歩踏み出し歩く姿をしている。『田舎教師』は確かにこれのスタイルだなと納得する。
そのすぐ近くの円照寺の境内には、羽生市の「お種さんの資料館」がある。お種さんは、近くの料理屋、小川屋の娘で秀三に弁当を届けたりした小川ネンがモデルという。資料館には当時の皿など生活用具、熊谷中学卒業時の秀三、晩年のネン写真などが展示されている。
田舎教師の舞台に来たからには、やはり清三が子供たちを遊ばせた利根川の土手を見ておきたい。カーナビで作中に出て来る発戸(はっと)の地名を見つけ、土手の近くで車を止めた。菜の花もちらほら生えている土手を登りきると、目の前に季節がらか思ったより水量の少ない利根川が流れていた。その向こうに遠く下野(しもつけ)の山々が霞(かす)んで見えた。
(特別編集委員・藤橋 進)
=『田舎教師』=

書下ろし長編小説。明治42年、佐倉書房刊。日露戦争で日本軍が遼陽を陥落させた日に結核で亡くなった小学校代用教員、小林秀三が残した日記を元に、主人公の田舎教師・林清三を、志を得ず淋しく世を去った多くの明治青年の一人として描く。恋愛や友達との交わり、そこで起きる葛藤は青春の普遍的なテーマであるとともに明治独特の青春も浮かび上がってくる。
人々の生活、自然や風物を、主観を交えず対象をありのままに表現する「平面描写」の手法で描き、奥行きと彩を添えている。「花袋の持つ本来の諸資質が、性急な観念に歪曲(わいきょく)されることなく、すなおに流路された秀作」(相馬庸郎)との評価がある。花袋作品では今でも最もよく読まれている。写真は岩波文庫版。






