作者が愛した鎌倉の風物
源実朝は鎌倉幕府を開いた父・源頼朝の次男で、母は頼朝の妻・北条政子。12歳で征夷大将軍に就き、成長するにしたがって政治に関与したが、右大臣に任ぜられた翌年、兄・頼家の子、公暁により鶴岡八幡宮で暗殺された。傑出した歌人でもあった。

文学者たちがこの人物について興味をそそられた時代があった。先の戦争末期の時期で、太宰治は『右大臣実朝』を書き、小林秀雄は『無常という事』の中で「実朝」を書いた。ほぼ同じ時期に大佛(おさらぎ)次郎は『源実朝』を書く。
それぞれの作品のもとになったのは『吾妻鏡』で、視点も書き方も異なっているが似ている。言論が統制された重苦しい時代だったからこそ策謀と裏切りの渦巻いた中世に関心が向けられたのだ。
実朝はそのような環境の中で無垢(むく)な魂を持ち続けた歌人として関心を集めた。
小林秀雄と大佛次郎は鎌倉の鶴岡八幡宮の近く、同じ雪ノ下に住まいがあり、文士同士で実朝のことを話題にしていたらしい。大佛は雑誌の連載に当たって「作者の言葉」をこう書いた。

<僕の鎌倉在住も二十年を越えた。今、源実朝を書こうとして心強く思うのは、鎌倉の風物については、たいていの作家よりもよく知っていようということである><鎌倉では現在でも滑川の川底の砂や山寄りの畑の土の中から、宋代の青磁の破片が見いだされる。無慙にこまかく割れたものだが、春の青空のように柔らかくうるんで目に暖かい色には変わりはない。>
これら美しい断片から壺(つぼ)なり皿なりの原型を手さぐりで作り上げること、それが仕事だったという。
鎌倉の町や山や海や谷戸の風景は、実朝の時代と大きくは変わらず、読者を中世初期の世界へと連れていく。
<源氏山の背に日が沈んで秋の気配の深い夕方が来たかと思うと、その一日の不安に怯(おび)えて昼のうちから戸締りしていた鎌倉の大路小路では、屋内にも灯も点さず話し声の外へ漏れるのさえ憚(はば)かって、不安の裡(うち)に事態がどう変化するかを窺っていた。>
合戦は北条義時と、父で執権北条時政の間で起きると伝えられていた。が、時政に囲われていた幼い将軍、実朝が、義時のもとに移されただけで合戦はなかった。
作品は二つの章からなっていて、前半「新樹」では、義時と政子が実朝を保護し、その一方で、頼朝の臣下たちを次々滅亡させ権力を掌握していく。静と動の世界が対比され、実朝の健やかな成長ぶりが描かれていく。学び始めた歌についても詳述される。
後半「唐ふね」で、実朝は政治にも力を示し始めるが義時の手の内を越えられず、船を造って唐に渡ろうとするが挫折。そして出家していた公暁が京から戻り、父の死の事情を知って憎悪を将軍職の後継者・実朝にぶつける。
源氏山は若宮大路の北西、JR横須賀線の西にそびえる、ランドマークとなる山だ。ふもとに臨済宗寿福寺がある。ここは頼朝の父、義朝が住んだところで、さらにそれ以前、源義家が奥州征伐の際に白幡(しらはた)を立てて兵を集合させたとも伝えられる。源氏ゆかりの地だ。

政子が栄西を開山に建立した寺で、実朝も参詣していたという。山門から長い参道を進み、寺のわきを通って後ろの山に行くと墓地がある。「やぐら」と言われる横穴墳墓があり、一つは北条政子の墓で、もう一つは実朝の墓だ。二つとも五輪塔だ。
大佛次郎の墓もあるそうだが、表示がなく確認できなかった。すぐ見つかったのは高浜虚子の墓だった。
次に向かったのは人々で賑(にぎ)わう鶴岡八幡宮だ。三ノ鳥居をくぐり、右に源氏池を眺めて奥に進み、東の隅にある鎌倉国宝館に行ってみた。
前の石柱に実朝の歌「山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」が刻まれている。後鳥羽院から文をたまわった時の喜びを表現した歌だ。
作者は実朝の歌の独自性、自由性、おおらかさ、明るさを高く評価した。実朝は21歳の時、5年ぶりに二所詣(にしょもうで)で箱根路を旅した。
「箱根路(はこねじ)をわれ越えくれば伊豆の海や 沖の小島に波のよる見ゆ」
この有名な歌について作者はこう語る。<視野は忽然(こつぜん)と開け、奥行きも加わった。こういう大きな空間は、古今(こきん)、新古今(しんこきん)の歌には見当たらなかったのである。しかもこの空間は緊密に充実している。空気の粒子がふやけても褪(あ)せてもいない。>
作者の描いた実朝は、美しく明るく健康的だ。優美なものを好み、歌風は繊細で品位が高かった、と論じる。小林秀雄の描いた暗く孤独な人物像とは対照的だ。
参道に戻って、舞殿から大石段を登って八幡宮へ。この石段の麓で実朝は暗殺された。以前にあった脇の大イチョウは今はなく、その子孫が植えられている。そこに公暁が隠れていたという説話があるが、この作品に大イチョウは登場しない。イチョウはまだ日本に渡来していなかったからだ。
鶴岡八幡宮を後にして、近くにある大佛次郎邸に寄ってみた。若宮大路の東側の路地を入ったところで、黒板塀の続く広い屋敷だ。表札が出ていた。外から見ると庭は樹木が豊かで、塀の屋根の上をリスが走っていた。
塀の端には若宮大路幕府旧跡の表示があり、すごいところに住んでいたのだと知る。
最後に向かったのは、大路の末端、由比ガ浜だ。実朝が唐ふねをつくった浜だ。ここで海を眺め、こわれた唐ふねを見つけたのは、京から戻ってきた公暁だ。

<砂丘の上に出ると、その展望が開け、稲村ケ崎、野島と二つの腕で抱えているが、それも達(とど)かぬ遠い沖が、夏とは思われぬ冷たい藍色をたたえて、遥かの空と触れ合っているのだった。>
(増子耕一)
=『源実朝』=

この作品は『婦人公論』昭和17年9月号から翌年11月号まで連載されたが、著者が南方視察のために中断。続稿は「からふね物語」の題で、『新女苑』に同20年6月号から21年3月号まで連載された。同20年8月15日の敗戦を挟んで、その前後に執筆されたという特異な作品。
鎌倉の風物は作者がこよなく愛していたもので、その情景が随所に表現されている。作者が何よりも魅了されたのは、珠玉のような歌の数々。28歳の短い生涯の中で詠み続けた歌は実朝の心の深みを暗示する作品で、作者はそれを鍵としてその生涯を解き明かしていく。日本画のように美しい作品だ。写真は徳間文庫版。






