トップ文化書評『夏蜜柑とソクラテス』 新井 紀子著 「解ける」より尊い「わかる」【書評】

『夏蜜柑とソクラテス』 新井 紀子著 「解ける」より尊い「わかる」【書評】

草思社 定価1870円
草思社 定価1870円

 『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』で知られる新井紀子氏のエッセー集。数学者で人工知能(AI)研究の第一人者が書いた本と聞けば、堅い論考を想像するかもしれないが、本書は何気ない日常を知性と教養で見つめ、女性特有の細やかなタッチで綴(つづ)ったとても読みやすい作品となっている。

 著者は小・中学、高校を通じて数学が大嫌いで、おまけに料理も苦手だったという。それが今や数学を専門とし、毎日手料理を作る。一番嫌いだったものを一番大切にしている――この逆説が、本書全体を貫く静かなテーマになっている。

 「アイスストーム」では、猫の死に人目も憚(はばか)らず号泣する近所の男性の姿が描かれる。論理的な人が、こうした人間の情動の場面を温かく切り取る。「ユーミンと猫」では学生時代にユーミンにインタビューした思い出が語られ、著者のユニークな人生を感じさせる。

 「『解ける』より『わかる』が尊い」は、本書の核心とも言える一文だ。素因数分解の一意性を例に、答えを出すことと本質を理解することの違いを語る。AIが問題を「解ける」時代だからこそ、人間が「わかる」ことの意味を問い直す。これは教育論であると同時に、著者自身の人生哲学でもある。

 米国の世界的なプレゼンテーションイベント「TED」に招かれ講演した体験談など、軽やかな筆致の中にも専門家としての骨格がしっかりと通っている。著者はAIの危険性を訴え続けているが、その静かで論理的な語り口には説得力がある。

 本書を読むと、教養とは自分自身と世界との関係を深く理解するための力なのだと思えてくる。AIの発達で効率や成果が優先される時代だからこそ、その価値はむしろ高まっているのかもしれない。

(長野康彦)

spot_img

人気記事

新着記事

TOP記事(全期間)

Google Translate »