
ハプスブルク王家は13世紀初頭から第1次大戦までの長い歴史を重ね、1452年以降、神聖ローマ帝国皇帝位をほぼ独占し、ヨーロッパの10余りの大国を傘下に収め、しかもハプスブルクという家名を国名にしていたのだ。
ちなみに19世紀から20世紀にかけて「地球の土地の4分の1はわが版図なり」と豪語していた大英帝国は、エグパート王のウェセックス家から現国王チャールズ3世のウィンザー家まで、都合14王家が交代し、フランスも同様に、都合13王家が交代している。この英仏以外の王家は、地勢学的にも陸続きのためか、おしなべて泡沫(ほうまつ)王家にすぎなかった。
それにしても、オーストリアを唯一の領土としていた頃のハプスブルク王家は恒常的な財政難、領内の叛乱、隣国との摩擦などの内憂外患に忙殺されていた。ところが、「汝(なんじ)、幸いなるオーストリアよ、結婚せよ」というハプスブルク家にまつわる俚諺(りげん)のように、絢爛豪華(けんらんごうか)の宮廷文化を開花させ、金羊毛騎士団を創設したブルゴーニュ公国の唯一の女性継承者と結婚したのは、皇帝マクシミリアン1世(在位1508~1519年)であった。
さらに皇帝は、800年も続いた「イスラム・スペイン」からイスラム勢力を放逐しローマ教皇から「カトリック両王」という褒詞(ほうし)を拝授し、「陽(ひ)の沈むことなき大帝国」を建設したスペイン両王の息子と娘を皇帝の娘と息子との「襷(たすき)掛け結婚」に成功し、のち皇帝の孫息子と孫娘をボヘミア・ハンガリー王家の娘と息子との「襷掛け結婚」にも成功した。これで、ハプスブルク家の版図は拡大し、とりわけ金羊毛騎士団は、騎士精神とその様式美の発現という点でも数ある西洋騎士団の模範となっている。
ルターの宗教改革が熾烈(しれつ)な宗教戦争へと展開したが、両者痛み分けとなり、カトリックの牙城だったハプスブルク帝国は「オーストリア・バロック」様式を生み出し、豪華な建築・彫刻・絵画などが溢(あふ)れんばかりの感動を今でも放っている。
(評論家 阿久根利具)





