
「鬼の雪隠(せっちん)」や「酒船石(さかふねいし)」など飛鳥(あすか)に点在する不思議な巨石をゾロアスター教の遺跡と推理した松本清張は、斉明(さいめい)天皇が同教に傾倒していたとして最後の長編『火の路(みち)』を書いた。その後の発掘で松本説は否定されたが、古代史への興味を引き立てたと評価する古代史家も多い。
斉明天皇は天智・天武天皇の母で、舒明(じょめい)天皇の皇后から皇極(こうぎょく)天皇になった時、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が蘇我入鹿(そがのいるか)を殺害する「乙巳(いっし)の変」に遭遇した。その後、弟の孝徳天皇を経て、斉明天皇として史上初めて重祚(ちょうそ)すると、唐・新羅(しらぎ)に滅ぼされた百済(くだら)救援のため、一族を引き連れて自ら筑紫に赴き、同地で没した。
土木工事を好み民を苦しめたとして史書では悪評が高いが、著者は推古天皇に続く豪族連合から天皇中心の国家形成を主導したと評価する。推古と聖徳太子が隋に派遣した留学生が20年を経て帰国し、唐の政体に倣う国造りを進めた時代である。
背景にあったのは緊迫する東アジア情勢で、白村江(はくすきのえ)での大敗の後、唐の侵攻を防ぐことが日本の至上命題になった。対馬から瀬戸内、畿内に残る山城はその名残で、天智天皇の事業は斉明の遺産を引き継ぐ形で進められた。国難を訴え、国内統一を促したのである。
斉明には意外な側面もあった。例えば、皇極として即位した年の夏は日照りが続いたので、明日香村の河上で四方を拝み天を仰いで祈ったところ、雷鳴が轟(とどろ)き大雨が5日間降り続いた。喜んだ民は「この上ない徳の天皇」と称(たた)えたという。また、自らの墓は薄葬(はくそう)にするよう遺言し、大土木事業を回避している。
世界遺産登録が間近な「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産には皇極・斉明天皇ゆかりの史跡も多い。蘇我氏の邸宅があった甘樫丘(あまかしのおか)を望む飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)跡のそばには蘇我入鹿首塚がある。本書を手に飛鳥を再訪してみたくなった。
(多田則明)





