
ドイツ・ベルリンのシンボルとされているブランデンブルク門のすぐ近くに、2700基以上のコンクリート製の石碑が並んでいる。第2次大戦期にホロコーストで犠牲になったユダヤ人を追悼する「ヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」である。これこそ、欧州各地に千カ所以上の強制収容所を建設し、600万人のユダヤ人を虐殺したドイツ国民の艱難辛苦の「過去の克服」なのである。
1945年4月30日のヒトラーの自殺。5月7日のドイツの無条件降伏。11月20日から始まったニュルンベルグ国際軍事裁判で、翌年10月1日に22人の被告のうち12人に死刑、3人に終身刑、4人に有期刑の判決。60年のアイヒマンの拘束と処刑、63年のアウシュヴィッツ裁判など、英・米・仏・ソ勝利国のドイツ分割占領とナチの追及はそれなりに進捗(しんちょく)したものの、大戦終結直後からの東西の対立が、49年ドイツの東西に分裂させた。
ドイツにおいては、58年のナチ犯罪追及センター設立。政府の要職の希望者に対する130以上の項目に関する調査を行う「非ナチ化」政策。だがこうした状況と離反するさまざまな動きがあった。敗戦時約800万人いたとされるナチ党員の各々のチェックは不可能だった。事実、50年時点で連邦司法省の幹部職員の51%がナチ党員、29%が突撃隊への加入歴があった。対ソ戦を構築中の米国陸軍情報部によるナチ陸軍情報部幹部の採用。Ⅴ2ロケットなどに成功したドイツ人科学者の米国在留を許可する「ペーパーブック戦」。ローマ教皇庁が秘(ひそ)かにナチ幹部を南米諸国に逃亡させたバチカン・ルートなど。
こうした四面楚歌(そか)的な状況で、ナチ戦犯者を追及し裁判によって正義を実現しようと活動したのが「ナチ・ハンター」である。68年、第1党CDUの党大会で元ナチ党員のキージンガー首相に女性ハンターが平手打ちした衝撃は世界を駆け巡った。これが政局を一変させたのだった。
法政大学名誉教授・川成 洋
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