
始まりは国境警備の小地主
とうとうこのテーマの本が出版された、これが私の第一声であった。日本の大学では欧州各国史が主流なので、このテーマの講座はない。ご苦労様でしたと言いたい。
ハプスブルク君主国は、欧州の王家の中で最大の版図を確保し、しかも最長期間それを掌握していた。ハプスブルク家が歴史に登場したのは11世紀、ライン川の上流地域、スイスのバーゼルとチューリッヒを結ぶ幹線の西方に建つ「ハプスブルク城」が、一族の家名の由来となった。ここを根城にして勢力を涵養(かんよう)し、神聖ローマ帝国の最末端である国境警備担当の伯爵格の小地主であった。
1218年に生まれたルドルフ・フォン・ハプスブルクは、73年の七選帝侯による皇帝選挙でハプスブルク家から初めてドイツ王に選ばれルドルフ1世として即位する。ローマで戴冠するよりも、政敵から獲得したオーストリアを固めることを優先し、3人の息子に領土を継承させ、91年に死去した。嫡男アブルレヒトがドイツ王に即位したのは、98年だった。
だが、1308年5月1日、彼は遺産相続に関して甥(おい)ヨハンにスイス山中で暗殺される。これはハプスブルク史で「暗黒の日」と言われている。内輪揉(も)めの挙げ句、尊属殺人などを犯すとは、王家に全く相応(ふさわ)しくないという評価が付けられた。開祖の死からほぼ150年間、ハプスブルク家は雌伏の時を迎えることになった。 1414年生まれのフリードリヒが、40年にドイツ王に選ばれ、52年にローマで戴冠式を挙げ、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ3世になる。ハプスブルク家の最初の皇帝であった。彼の嗣子は、マクシミリアン1世として86年にドイツ王、1508年に皇帝に即位する。この親子が3家5組の雅(みやび)な結婚作戦を通じて、ブルゴーニュ、スペイン、ボヘミア、ハンガリーを獲得。これ以降、スペインなどを失うもハプスブルク家は1918年11月まで群雄割拠の真っただ中で版図を拡大させ、ハプスブルクという家名を屹立(きつりつ)させていたのである。
(法政大学名誉教授・川成 洋)(地球の歩き方編集室 定価2420円)





